安曇野市: 満願寺

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概要・歴史・観光・見所

満願寺(安曇野市)概要: 栗尾山満願寺の創建は神亀年間(724〜729年)境内背後の長者ヶ池に黄金仏像(1寸8分)が出現し安置したのが始まりとも、聖武天皇の勅願により開山したのが始まりとも云われています。延暦14年(795)、八面大王(※1)の討伐の際、坂上田村麻呂が派遣され当寺で戦勝祈願を行い、見事念願成就した事から堂宇を再建、再興しています。

養和年間(1181〜1182年)には木曽義仲が寺領(周辺の森林)を寄進し境内の整備が行われています。

中世に入ると当時の領主小笠原家の祈願所として中興開基され、天正11年(1583)に小笠原貞慶(※2)によって寺領を安堵し、天正13年(1585)には本堂を修復し観音堂を造営しています。

江戸時代に入ると歴代松本藩主が庇護し、慶長9年(1604)と慶長13年(1608)に石川康長が寺領を安堵、慶長19年(1614)には小笠原秀政が寺領10石を寄進しています。満願寺は十返舎一九の「続膝栗毛」の舞台の1つにもなっています。

明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により明治3年(1870)に一時廃寺となりましたが、明治9年(1876)に再興されました。

古くから祖霊信仰が盛んな寺院で、当地方ではその年に亡くなった人の御霊は一端、満願寺の境内に集まり、新盆に家族が迎えに行くという信仰が根付き安曇・筑摩領民の総菩提所とも言われてきました。

現在も広大な境内には本堂の他、微妙橋(※3)や聖天堂(※4)、絵馬(※5)などが残され古寺の雰囲気が残され躑躅(つつじ)の名所にもなっています。

信濃三十三番観音霊場(※6)第26番札所(札所本尊:千手観世音菩薩・御詠歌:有り難や 功力も深き 観世音 導き給へ 弥陀の浄土へ)。信州川西三十三番霊場第1番札所。宗派:真言宗豊山派。本尊:千手観音。

(※1)八面大王−魏石鬼(義死鬼)とも。安曇郡に巣くう悪鬼で坂上田村麻呂が討つ取ったとされ、魏石鬼の剣の一部が満願寺に納められた。他説では当時の領主仁科家の家臣等々力家の嫡男田村守宮によって討ち取られ、田村守宮が後年田村麻呂と混同して伝えられてたとも。
(※2)小笠原貞慶−信濃守護・小笠原長時3男。武田信玄との塩尻峠の戦で敗れ没落するものの、何度も主家を変え、最後は徳川家に従い大名(3万石)として復権。
(※3)微妙橋−明治39年(1906)建築、屋根付き太鼓橋、長さ10m、幅2.5m、瀬川伊勢松作、橋板の裏に経文が書かれている事から御経橋の異名がある(御経を唱えながら渡らなければならないとも)。日本三霊橋(満願寺微妙橋・高野山無妙橋・越中立山無明橋)の1つに数えられている。安曇野市指定文化財。
(※4)聖天堂−明治28年(1895)建築、宝形造り、銅板葺、桁行3間、梁間3間、正面唐破風向拝付、正面花頭窓付、外壁は素木、横板張り。安曇野市指定文化財。
(※5)絵馬−馬図2点、慶長7年:1602年作・二十五菩薩来迎図2点、江戸時代初期作・牛若丸弁慶図1点、江戸時代初期作。以上5点は安曇野市指定有形民俗文化財。
(※6)信濃三十三番観音霊場−江戸時代初期頃に選定された古霊場。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-安曇野市教育委員会

満願寺:写真

満願寺
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