飯山市: 正受庵

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概要・歴史・観光・見所
正受庵(飯山市)概要: 小畝山正受庵は長野県飯山市大字飯山上倉に境内を構えている臨済宗の寺院です。正受庵の創建は寛文6年(1666)、道鏡慧端が開いたしたのが始まりと伝えられています。慧端は飯山藩(藩庁・飯山城)の藩主松平忠倶と縁が深く、松平忠倶の参勤交代に随伴し江戸東北寺(東京都渋谷区広尾:当時は東北庵)に赴き出家、修行を終え飯山に戻ると忠倶は寺領200石と堂宇の建立など寄進しようとしましたが慧端はこれを固辞した為、草庵を与えると快く受け取り正受庵と名付けました。水戸光圀(水戸藩の第2代藩主・徳川家康の孫)から2度の招請も辞退したとも言われ享保6年(1721)80歳で死去するまでこの地に留まり臨済宗中興の祖と呼ばれるまでになりました。

正受庵は正式な寺院ではなかった為、東北寺の末寺とする事で寮庵扱いとし、主に東北寺の弟子達を受け入れました。基本的に寺領を持たず檀家もいなかった為修業道場として利用されていましたが文政3年(1820)に五世東瞑が藩命により退去となり無住寺となり弘化4年(1847)の善光寺大地震により大きな被害を受けました。慧端の旧跡ということで本堂(※2)はすぐさま再建され、その際旧材を再利用しほぼ同じ様な形で建て替えられたそうです。明治6年(1873)に無住で檀家がいなかった事から正受庵は廃庵となり荒廃が進みましたが明治17年(1884)に山岡鉄舟・高橋泥舟らが尽力を尽くし再興、寺宝を集めなおしました。山号:小畝山。宗派:臨済宗。本尊:十一面観音。

正受庵の文化財
・ 十一面観音像−室町時代−檜材、一木造−飯山市指定文化財
・ 鐘楼-宝形造、銅瓦棒葺、袴腰付-大輪院から飯山城、正受庵に移築-市指定文化財
・ 中野不白筆慧端老漢在世自偈-江戸時代-横27cm、縦65cm-飯山市指定文化財
・ 慧端遺偈−享保6年−飯山市指定文化財
・ 東嶺和尚讃無難和尚像−江戸時代−縦67cm、横41cm−飯山市指定文化財
・ 道樹宗覚遺偈−江戸時代−飯山市指定文化財
・ 初夢画讃−江戸時代−白隠の筆−飯山市指定文化財
・ 白隠筆古剣銘−江戸時代−白隠の筆−飯山市指定文化財
・ 至道無難筆平常道−江戸時代−至道無難の筆−飯山市指定文化財

補足
(※1)慧端−松代城の城主真田信之の庶子とも云われています。
(※2)本堂−木造平屋建、寄棟、茅葺、桁行6間、梁間4.5間、真壁造、平入。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-長野県教育委員会・飯山市教育委員会
・ 現地案内板-正受庵

正受庵:写真

正受庵
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