伊那市(中心部・歴史)概要: 伊那市は御殿場遺跡や伊勢並遺跡等が分布し早くから開けていた地域で、伊那谷が馬の産地だった事もあり古代朝廷とも繋がりが深い地域でした。6世紀には朝鮮半島から渡来した建築技術集団と思われる猪名氏の支配化となり伊那部の地名の由来となりました。猪名氏の後裔かは分かりませんが中世は伊那部氏が周辺を支配し天文3年(1534)には春日城を築き天文11年(1542)の武田信玄が諏訪侵攻の際には諏訪氏側に立ち援兵を送っています。諏訪氏や小笠原氏の敗退により伊那部氏は武田家に一時従いますが弘治2年(1556)川中島の戦いで上杉側に付き当時の領主伊那部左衛門尉重親は斬首されます。新たに城主となった春日河内守昌吉も高遠城攻防戦で討ち死に徳川家支配となり伊那市周辺は高遠城主、保科氏が管理します。
江戸時代に入り三州街道(伊那街道)が開削されると伊那部宿が開かれます。伊那部宿は飯田藩の参勤交代で利用されていた他、飯田城下から塩尻宿(中山道)の中間にあたる交通の要衝だったことから多くの物資の集積場となり、本陣や問屋、旅籠、酒屋、薬屋、荒物屋などが軒を連ねたそうです。伊那部宿は平田国学を学んでいる人が多かったとされ幕末に天狗党(水戸藩浪士)が宿場に入ると歓迎し昼食を与えたと伝えられています。明治27年に下段に三州街道が開通すると伊那部宿は次第に衰退し中心部が現在に見られるように移動しています。
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