北国街道: 牟礼宿

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概要・歴史・観光・見所

牟礼宿(北国街道)概要: 牟礼宿がある地は古くから越後国(現在の新潟県)と善光寺平(長野県長野市)を結ぶ交通の要衝として重要視牟礼宿(信濃町)されていた場所で中世には矢筒城の城下町として町割りされたと思われます。しかし、戦国時代の天文22年(1553)には武田信玄の侵攻を受け矢筒城は落城、当時の城主だった島津景秀(権六郎)も討ち取られ断絶しています。その後、島津氏の一族が一時復権し、天正10年(1582)には武田勝頼の援軍要請を受けた上杉景勝が信州に軍を進め矢筒城に一時駐屯しました。天正10年(1582)の矢筒城の動向は判りませんが、慶長3年(1598)に上杉景勝が会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると周辺の領主達も従った為廃城になったと思われます。

江戸時代に入った慶長16年(1611)に北国街道が開削されると宿場町である牟礼宿として正式に認められ、宿場には本陣、脇本陣、問屋、旅籠などが設置、江戸後期には家屋143軒、寺院4軒、人口746人を擁する周囲の経済的、政治的中心として発展しました。

牟礼宿の実力者である加賀屋柳沢六左衛門家は富山藩の本陣や加賀藩の脇本陣格と関係が深く、江戸時代末期に発生した善光寺地震で本陣が倒壊すると、建物の再建費用の一部を富山藩が捻出しています。

牟礼宿は町の構造は全長600m、東西に枡形が配され、行政区間が東組と西組に分かれ、月の半分で宿場の運営業務が交代し負担の軽減を図っていました。

北国街道を参勤交代で利用していた加賀藩は本城である金沢城(石川県金沢市)と江戸の丁度中間点に牟礼宿があった為、藩主が牟礼宿に到着すると江戸藩邸と金沢城の両方に無事の知らせの飛脚を走らせたと言われています(加賀藩は牟礼宿外れに"武州加州道中堺碑"を建立しています)。

又、北国街道は佐渡島から産出される金などの金銀荷物を江戸まで運ぶ重要ルートの1つで牟礼宿はその中継地点として機能し幕府は金附場を設け管理させました。明治時代以降も周辺の中心地として機能し飯綱町牟礼庁舎が建てられています。現在は古い建物も点在するものの古い町並みは失われつつあります。

北国街道:宿場町・再生リスト

牟礼宿:町並み・写真

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