郷原宿(善光寺西街道)概要: 郷原宿は慶長19年(1614)、善光寺西街道の開削と共に開かれた宿場町です。当時の松本藩主小笠原秀政は藩庁が設置された松本城と中山道を繋ぐ為、城下に近い村井宿から中山道の洗場宿に街道を開削し要所には宿場を配し、郷原宿もこのような経緯から計画されました。善光寺西街道は参勤交代に利用されなかった為、郷原宿には本陣や脇本陣は設けられず大庄屋の格式をもった赤羽家がその役割を持ち、身分の高い人物の宿泊や休息に利用されました。
郷原宿は中山道と松本城下を最短で結んだ為、商人の往来や善光寺詣での参拝者などで活気がありましたが江戸時代末期では問屋2軒(上・下)、旅籠10数軒、家屋73軒と主要幹線で五街道に数えられた中山道の宿場町に比べると小規模でした。妻籠宿や奈良井宿などの宿場町のような建物同士の密度間が少なく、広い敷地割りとなっているのが大きな特徴で、一般的な町屋の敷地では間口2〜3間、奥行き20間程なのに対し、郷原宿では間口が5〜6間、奥行き30〜40間と数倍規模を誇りました。その為、家屋の数に比べて宿場は長くなり独特な町並みが形成されました。
又、建物も独特で切妻、妻入り、軒に「雀おどり」を持つ所謂本棟造りと呼ばれる町屋と一般的な切妻、平入の町屋が混成し、中山道沿いによく見られる形式(出桁造)と信州の民家の特徴(本棟造)がぶつかり合う郷原宿の土地柄を現しているようで興味深いところです(一般的な町屋は敷地間口一杯に建てられるのに対し、郷原宿は個々の敷地が広い為、主屋の廻りに庭を設ける御屋敷タイプが多く、敷地背後は畑として利用されていました)。郷原宿は安政5年(1858)の大火で多くの建物が建て替えられた為、現在でも古い建物が残り特徴ある町並みが残っています。
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