望月宿

  長野県:歴史・観光・見所中山道(信濃路)>望月宿

概要・歴史・観光・見所
望月宿(佐久市)概要: 望月宿は中山道の宿場町で中山道69次中25番目に位置しています。望月宿の集落的な発生は判りませんが奈良時代から平安時代にかけて朝廷に名馬を献上する牧が信濃国(現在の長野県)16カ所存在し、望月牧はその中でも最上位に位置付けられ特に満月(望月:8月15日)の日が献上する日だった事から地名になったとも云われています。中世に当地を支配した望月家は信濃牧を管理する牧監の職を担った滋野氏の一族とされ、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承しました。その後、滋野氏から発生した海野氏、根津氏、望月氏を滋野三家と呼んで当地域に大きな影響力を与えました。

望月宿を望める高台には望月城が築かれ、当初はその城下町として町割りされたと思われますが、戦国時代に入ると甲斐の武田家や越後の上杉家などの大大名の台頭により衰微し天文12年(1543)には武田信玄の軍門に下っています。天正10年(1582)に武田家が滅びると後ろ盾を失った望月氏は独立を模索し小田原北条家と和睦しますが、武田家を見限り徳川家に転じた依田信蕃に攻められ、一か月間にわたる籠城戦の末に落城しています。望月宿には望月家縁の史跡も多く、居城だった望月城や菩提寺だった城光院、鎮守で崇敬社だった大伴神社などが点在しています。

望月宿は江戸時代に入り中山道が開削されると大森久左衛門吉国(望月宿本陣家)によって宿場町として整備され本陣、脇本陣、問屋、旅籠などが設置、慶長7年(1602)に開宿しています。当初は鹿曲川左岸のみでしたが、中山道の交通量が増えると望月宿の利用も高まり、寛永6年(1629)には鹿曲川対岸に新町が町割りされました。寛保2年(1742)の「戌の満水」と呼ばれた大洪水で新町は壊滅的な被害を受けた為、現在地(望月宿本町の隣地)に改めて町割りされています。

望月宿は天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると宿場は本陣1軒(大森家)、脇本陣1軒(鷹野家、問屋兼任)、問屋1軒、旅籠9軒、宿場の長さが六町と比較的小規模でし江戸時代後期の寛政12年(1800)には家屋142軒、592人で構成されていましたが天保14年(1843)には82軒、360人と大幅に減少し衰退していた事が窺えます。望月宿は明治時代以降も周辺の商業の集積地として重きを成し、明治時代中期以降は、養蚕業の興隆などにより大きく発展し花街として料理屋、茶屋、置屋なども進出し戦前までは花柳界としても知れた存在でした。町屋の大型化が見られ、新しく建て替えられた家屋も多いのですが真山家住宅(国指定重要文化財)や鷹野家住宅など古い町屋も点在し当時の宿場町の町並みを伝えています。

【鷹野家・脇本陣】−鷹野家は望月宿の脇本陣を代々歴任した家柄です。望月宿は当初、問屋は本陣職を担った大森久左衛門家が担っていましたが、江戸時代末期の嘉永4年(1851)に中山道信濃路に位置する宿場町(15宿)の取締役に就任した事を受け、多忙になった為、脇本陣の鷹野半兵衛家と旅籠の真山信七家(屋号:やまと屋)が問屋となり、望月宿の問屋は3家体制となりました。現在の鷹野家住宅主屋は江戸時代後期の文政2年(1819)の火災で焼失後に再建されたもので、木造2階建(2階部分は大正時代に養蚕所として増築)、切妻、桟瓦葺、平入、2階正面が張り出し1階の桁で支えられる出桁造り、2階外壁両側には袖壁、2階正面は千本格子、正面の下屋庇の出梁には木鼻彫刻、建坪99坪。内部は正面が土間、向かって右側が通り庭で敷地背後の庭まで通じ、間取りは正面の左から茶の間、三の間、広間、背後には二の間、小姓部屋、最奥には参勤交代で望月宿を利用した諸大名や公家、僧侶など身分の高い人物用の上段の間が配されていました。鷹野家住宅は江戸時代後期の脇本陣建築の遺構として貴重な存在で、望月宿の町並み景観に大きく寄与しています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(望月宿のみち案内)-佐久市

望月宿:町屋・町並み・写真

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真山家住宅
真山家住宅
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大伴神社
大伴神社
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城光院
城光院
城光院
望月城
望月城
望月城

望月宿・歴史・観光・見所

望月宿:脇本陣(鷹野家)望月宿:脇本陣(鷹野家)
・鷹野家は望月宿の脇本陣を歴任した家柄です。現在の主屋は江戸時代後期の1819年の火災で焼失後に再建されたもので、木造2階建(2階部は大正時代に養蚕施設として増築)、切妻、平入、内部には身分が高い人物が利用した上段の間が設えています。
真山家住宅真山家住宅
・真山家は屋号「大和屋」を掲げ、望月宿の問屋や旅籠を歴任した家柄です。現在の真山家住宅主屋は明和2年(1765)の火災で焼失後に再建されたもので、木造2階建、切妻、平入、出桁造、江戸時代中期の町屋建築の遺構として貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
大伴神社大伴神社
・大伴神社は長く当地を支配した望月氏の祖神である天忍日命を祭る神社で、御牧七郷の総社、望月牧鎮守社、佐久三社として信仰されました。格式が高く、三代実録では従五位上、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では式内社として記載されました。
城光院城光院
・城光院は長く当地を支配した望月氏(望月城の城主)の菩提寺で、室町時代の文明7年(1475)に望月遠江守光恒が開基となり南浦宗清和尚により創建されました。境内には古い石造物が多く、中でも石造庚申塔、石造十王像、石造宝篋院塔は佐久市指定有形文化財。


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