城光院(佐久市望月)

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概要・歴史・観光・見所
城光院(佐久市・望月宿)概要: 望月山城光院長野県佐久市望月に境内を構えている曹洞宗の寺院です。城光院の創建は文明7年(1475)、当時の領主望月光恒が開基となり南浦宗清和尚を招いて開山したのが始まりと伝えられています。境内背後は居城となった望月城で城光院は歴代望月氏の菩提寺として庇護されました。寺宝である本尊阿弥陀如来坐像は室町時代初期に制作、善淵王像(望月氏の祖)は安永年間(1772〜1780年)に制作されたものです。境内背後の裏山は望月氏の居城である望月城が築かれ、麓の境内周辺は望月氏の居館跡と推定される為、望月城が落城した天文12年(1543)、天正10年(1582)には当寺も大きな被害を受けたと思われます。山号:望月山。宗派:曹洞宗。本尊:阿弥陀如来。

城光院本堂(覚皇宝殿)は享和年間(1801〜1804年)に再建されたもので木造平屋建て、入母屋、瓦葺、平入、桁行9間、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。山門は切妻、桟瓦葺き、三間一戸、桁行3間、張間2間、四脚門形式。城光院境内に建立されてる石造宝篋院塔4基は望月家関係者の墓碑として室町時代に制作されたと推定されるもので、凝灰岩製、2基は比較的保存状態が良く、その内1基は永正十一11年(1514)「逆修同窓宗明大姉」、もう1基は永正十三年(1516)「為仙深祐禅定尼□」の銘が刻まれています。石造庚申塔は延宝年間(1673〜1681年)に制作されたもので、青面金剛の御姿、像高75cm、肩幅20cm、意匠的にも優れ石仏の傑作されます。石造十王像は制作年が不詳なものの、十王全ての像が完全に残る貴重なものとされます。石造宝篋院塔(4基)、石造庚申塔、石造十王像はいずれも貴重な事から昭和61年(1986)に佐久市指定有形文化財に指定されています。

【 城光院:菩提者(望月家) 】望月家は滋野貞主の嫡流とされ海野小太郎幸明の3男滋野重俊が佐久郡望月邑を領した事から地名に因み望月氏を称したのが始まりとされます。古くから、望月家、海野家、根津家は滋野三家と称され常に連携して事にあたり緊密な関係を維持していました。治承4年(1180)の木曾義仲挙兵の際は当主望月国親と子供である重隆は共に従軍し大功を挙げたとされ大きく勢力を伸ばしています。義仲が討死すると鎌倉幕府の御家人となり文治4年(1188)の奥州合戦や建久5年(1194)の永福寺事件、建保元年(1213)の和田合戦などで功を挙げ信濃国和田領を加増されています。鎌倉幕府滅亡直後は14代執権北条高時の次男北条時行を諏訪頼重、諏訪時継、滋野三家で擁立して挙兵、信濃守護小笠原貞宗や渋川義季、岩松経家、今川範満、下野国守護小山秀朝、鎌倉将軍府執権足利直義(足利尊氏の弟)などを次々で撃破し鎌倉を一時掌握しましたが、足利尊氏の本隊を侵攻してくると敗退し画策は失敗しています。

南北朝の争乱では時行が南朝方に与した影響もあってか南朝方として行動しています。戦国時代に入ると武田家や上杉家の侵攻により衰微しますが、天正12年(1543)に当時の当主望月源三郎は海野家の流れを汲む真田幸隆の誘いに応じて武田家に従属し、その後はお互い縁組をする事で武田家一門として地位を確立しています。天正10年(1582)、武田家が滅び、本能寺の変で織田信長が自刃すると当地域には小田原北条氏が進軍、籠城戦の末、和睦が成立します。しかし、同年、今度は徳川軍が侵攻、最後の当主、望月昌頼は居城である望月城に立て籠もり抵抗しますが徳川家に従属した依田信蕃の猛攻により1ヶ月後に落城、昌頼は自刃し宗家嫡流は途絶えています(真田十勇士の望月六郎は望月家出身者がモデルになったとも云われています)。

城光院の文化財
・ 石造庚申塔−延宝年間−像高75cm、肩幅20cm−佐久市指定文化財
・ 石造十王像−11体、人頭杙、浄玻璃鏡−佐久市指定文化財
・ 石造宝篋院塔(望月氏墓碑)−永正11年・永正13年−佐久市指定文化財

城光院:写真

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