塩名田宿(佐久市)概要: 塩名田宿は慶長から元和年間に旧塩名田や、舟久保、町田集落の住民が集められて整備された宿場町で中山道69次中23番目に位置しています。本陣を歴任した丸山家には慶長7年(1602)に発給された「伝馬定書」、「駄賃定書」が残されている事から同年に正式な宿場町として成立した事が判ります。宿場は天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると本陣2軒(丸山善兵衛家・丸山新左衛門家)、脇本陣1軒(丸山文左衛門家)、問屋2軒(新左衛門・文左衛門)、名主(丸山彦兵衛)、旅籠7軒が設置され家屋116建、四町二十八間の長さと比較的小規模でした。
隣の八幡宿とは3キロ弱しか離れていない為、旅籠が少ない宿場町でしたが千曲川の東岸にあたり、川止めにより利用する大名も多く本陣が2軒設けられています。度々橋が架けられたものの、急流だった事から洪水毎に流された為、正徳2年(1712)には幕府の命により「中山道塩名田宿・御馬寄村の間千曲川橋組合」が発足しています。明治時代に入ると組合が解体された為、明治6年(1873)に舟会社が発足し、その際設けられた「舟つなぎ石」が現在も残され昭和25年(1950)に佐久市指定史跡に指定されています。
塩名田宿が繁栄したのは明治時代中期頃で、金融機関の支店や肥料会社、製紙工場などが進出した事で、宿場内には多くの店舗や料亭が建ち並び花街として名を馳せるようになり、劇場である「塩名田座」も開設されました。夜になると多くの店から三味線の音が聞こえたそうですが、太平洋戦争後は大きく衰退しました。
岩村田宿側の下宿、本陣や高札場など集まる中宿、千曲川沿いの河原宿と3つの町に分かれていて、下宿と中宿は本陣(丸山新左衛門家:宝暦6年:1756年再建・木造平屋建て、切妻、桟瓦葺、妻入、内部は住宅として改築された。佐久市指定史跡)や佐越(佐藤家住宅)など江戸時代に建てられた建物が点在するものの交通量も多く建て替えが進み当時の宿場町の町並みが失われつつあります。河原宿では道幅が当時と変わらず角屋(木造三階建、切妻、桟瓦葺、平入、楼閣風)など昭和初期に建てられた木造3・4階建ての建物や川魚料理屋などが軒を連ね雰囲気のある町並みが続きます。
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