津金寺

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概要・歴史・観光・見所
津金寺(立科町)概要: 慧日山修学院津金寺は長野県北佐久郡立科町山部に境内を構えている天台宗の寺院です。津金寺の創建は大宝2年(702)、行基菩薩(奈良時代の高僧、東大寺四聖、日本初の大僧正)が戸隠権現長野県長野市)の霊験により聖観音を安置したのが始まりと伝えられています。伝承によると行基菩薩が戸隠神社を訪れる為に東山道を北上していた際、当地で榧の霊木を発見、その霊木から3尺3寸の聖観音像を彫刻し一宇を設けて安置したと伝えられています(同時に行基が開山した、長野県佐久穂町の千手院と山梨県北斗市の海岸寺と合わせて日本三津金寺と呼ぶようです)。

一方、行基菩薩が始めて寺院を創建したのは37歳の慶雲元年(704)に自宅を改築し家原寺(大阪府堺市西区家原寺町)と名付けたのが最初とするのが一般的なので津金寺を創建した可能性は低いかも知れません。ただし、当地には官道である東山道の前身である古東山道が通過していた為、比較的早くから開けていた事から、何らかな宗教施設が存在していた可能性があります。

その後、仁寿年間(851〜854年)に天台宗3代座主慈覚大師円仁により境内が整備され、応和3年(963)には禅瑜(天台宗18代座主良源の弟子)、長保3年(1001)には寂昭(源信、仁海を師事し、宋に渡海した際には紫衣と円通大師の号を賜っています。)などの高僧が津金寺の発展に尽力し、特に寂昭は源信に天台教学を、仁海に密教を学んだ事で宗教観を広く捉え、津金寺を四宗兼学の道場に発展させたとされます。

平安時代になると周辺は「望月牧」と呼ばれる朝廷に献上する馬の牧場が成立し、清和天皇の第4皇子貞保親王の後裔とされる滋野氏が牧官として当地に派遣されると、津金寺に帰依し大旦那になったと思われます。津金寺の境内には鎌倉時代の滋野氏関係者の墓碑が3基建立されている事からも関係性が窺え、津金寺はその庇護の下で大きく勢力を拡大し、建治2年(1276)には天台宗最古の学問所となる津金寺談義所が開設され、全国から数多くの僧侶が訪れるようになっています。

室町時代の応安6年(1373)には穏海大僧正が当寺に入り、由来書となる「津金寺名目」を編纂、境内には36院、24坊、末寺は48カ寺を数え最盛期を迎え、更級八幡神宮寺(武水別神社長野県千曲市)、顕光寺(戸隠神社:長野県長野市)、善光寺(長野県長野市)、光前寺(長野県駒ヶ根市)と共に信濃五山(天台宗)の一つに数えられるなど信濃国の天台宗の寺院の中で大きな役割を持ちました。

戦国時代に入り武田信玄が信濃に侵攻すると、津金寺の住職である善海や宗徒達は積極的に武田家に味方し、特に永禄4年(1561)に越後の上杉家との対立である川中島合戦において大功を挙げ、寺領1千石の朱印状が発布されるなど篤く庇護され現在でも堂宇には武田家の家紋である武田菱が掲げられています。天正10年(1582)、織田信長の信濃侵攻の兵火により焼失し境内が荒廃しましたが天正14年(1586)に小諸城の城主となった松平康国の協力により再興され、江戸時代には徳川将軍家から朱印地を賜り寺門を維持しました。

【 津金寺:堂宇と文化財 】-津金寺境内正面に立つ現在の仁王門は縁、江戸時代後期の文化10年(1813)に再建されたもので三間一戸、茅葺、八脚門、切妻、桁行3間、梁間2間、内部に安置されている仁王像は戸隠権現が彫り込んだとされ、その製作している姿を他人に見られた為、完成しないまま天に帰ったと伝えられています(実際は無名の名工が密かに製作していましたが、完成間近に死去した為、戸隠権現のものとして奉納したとも云われています)。津金寺の境内背後の裏山中腹には鎌倉時代に建立された3基の滋野氏の供養塔(津金寺宝塔)があり2基は承久2年(1220)に滋野氏夫妻が建立した逆修供養塔(生前に自分が建立した墓碑)で、1基は家禄3年(1227)に滋野盛□が両親の菩提を弔う為に建立したもので、年代が明確で保存状態も良く貴重な事から昭和49年(1974)に長野県県宝に指定されています。

津金寺観音堂は元禄15年(1702)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行3間、梁間3間、外壁は真壁造り板張り、内部の内陣には本尊となる聖観世音菩薩が安置されています。観音堂は江戸時代中期の御堂建築の遺構として貴重な事から平成4年(1992)に立科町指定文化財に指定されています。津金寺妙見堂は天保7年(1836)に造営されたもので、三間社流造、こけら葺き、正面一間軒唐破風向拝、三方浜縁、高欄、脇障子付、向拝の木鼻や蝦虹梁、欄間には象や獅子、龍などの精緻な彫刻、棟梁は立川和四郎富昌と田中円蔵が手掛けています。

妙見堂は江戸時代後期の本殿建築の遺構として貴重な事から平成4年(1992)に立科町指定文化財に指定されています。又、津金寺境内一帯は自然環境と文化財が見事に調和しているものとして長野県郷土環境保全地域に指定されています。佐久三十三観音霊場第33番札所(札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:津金寺は弘誓の舟に 棹さして あまたの人を渡しこそすれ)。山号:慧日山。院号:修学院。本尊:聖観音。宗派:天台宗。

【 津金寺:菩提者(滋野家) 】-滋野家は貞保親王(清和天皇の第4皇子)が信濃国海野庄(現在の長野県東御市本海野宿)に住し、延喜5年(905)、善淵王(貞保親王の孫)の代に醍醐天皇から滋野の姓を賜ったことが始まりとされます。伝承によると貞保親王が当地に派遣された際、眼病を患い浅間温泉松本市の浅間温泉?)で湯治しましたが結局失明し小県郡望月郷海野白鳥庄に住むようになったと伝えられています。ただし、これらの事は正式な記録など記されていない事から疑問視され当初は楢原氏と称し弘仁14年(823)に家訳と子供とされる貞主が滋野朝臣を賜った説や名草宿禰安成が仁寿2年(852)に滋野姓に改称した説などがあります。

中央との繋がりを強く、朝廷直轄の御牧である信濃十六牧の中でも最大規模の望月牧の牧官として経営を任されたとされ、貞主の娘は仁明天皇の女御となり、自らは正四位下に列し相模守を担い、貞雄(貞主の弟)は従四位上、恒蔭(貞雄の孫)は信濃守、善根(貞主の次男)は信濃守を担っています。承平8年(938)の平将門の乱の際、滋野恒成(善淵)は旧知の間柄と思われる平貞盛(平国香の嫡男)と共闘して平将門と対立し敗退しています。重道の代になると地名から海野氏を称するようになり、さらに、根津氏や望月氏などの分家筋が発生し特に海野氏、根津氏、望月氏は「滋野三家」と呼ばれ大きな影響力を持ちました。

津金寺の文化財
・ 津金寺滋野氏宝塔(3基)-承久2年(2基)・嘉祥3年-長野県指定県宝
・ 境内−約5.7ヘクタール−長野県郷土環境保全地域
・ 観音堂−元禄15年、入母屋、銅板葺、三間四方−立科町指定文化財
・ 妙見堂−天保7年、諏訪立川流彫刻−立科町指定文化財

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-立科町教育委員会・立科町文化財保護委員会
・ 現地案内板(津金寺郷土環境保全地域)-長野県

津金寺:観音堂・妙見堂・写真

[ 付近地図: 長野県立科町 ]・[ 立科町:歴史・観光・見所 ]
津金寺山門に安置されている素朴な仁王像(吽形像) 津金寺山門に安置されている素朴な仁王像(阿形像) 津金寺参道に生える松の大木 津金寺観音堂正面と提灯
津金寺観音堂左斜め前方と石造多層塔とのぼり旗 津金寺 津金寺の歴史が感じられる庵棟 津金寺妙見堂拝殿正面
覆い屋内部にある津金寺妙見堂本殿 津金寺境内に生える大木 津金寺境内に置かれている梵鐘 津金寺境内背後の高台にある滋野氏宝塔

津金寺:境内・見所

仁王門仁王門
・津金寺仁王門は江戸時代後期の文化10年(1582)に造営された建物で、切妻、茅葺、三間一戸、八脚単層門、桁行3間、張間2間、棟梁は立川流一門、内部には戸隠権現が彫刻したと伝わる仁王像(阿像・吽像:丈六像、素木)が安置されています。
観音堂(本堂)観音堂
・津金寺観音堂は江戸時代中期の元禄15年(1702)に造営された建物で、入母屋、銅板葺、内部は内陣が来迎柱(円柱)で構成されるなど古式を踏襲した形式で、内陣は3基の宮殿が設けられ行基菩薩縁の本尊が安置されています。観音堂(本堂)は貴重な事から立科町指定文化財に指定。
妙見堂妙見堂
・津金寺妙見堂は江戸時代後期の天保7年に造営された建物で、一間社流造、正面1間軒唐破風向拝付、棟梁は立川流二代目和四郎富昌と茂田井出身の宮大工田中円蔵、建物全体に数多くの彫刻が施されています。妙見堂は貴重な事から立科町指定文化財に指定されています。
宝塔宝塔
・承久2年(1220)、津金寺を庇護した滋野氏一族の夫妻が生前供養の為に奉納した逆修供養塔(2基)と嘉禄3年(1227)に滋野盛□が両親の菩提を弔う為に法華経を奉納した納経塔(1基)が本堂背後の高台に建立されています。宝塔は貴重な事から長野県の県宝に指定されています。
庵棟庵棟
・建築年代は判りませんでしたが、外見上は歴史的建築物に見えます。建物は、木造平屋建、寄棟、平入、鉄板葺(旧茅葺)、外壁は真壁造り白漆喰、煙り出し屋根部分には武田菱が掲げられ、規模の大きい建物です。


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