中原兼遠

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人 物 名
備 考
・中原兼遠・中原兼遠は信濃国佐久郡に移住し牧長を務めたとされる中原兼経(右馬少允)の3男とされる人物です。ただし、明瞭な資料が無く、信濃の権の守(信濃国主?)や木曽谷の土豪、大吉祖荘の荘官、交通輸送業者(商人)などの説があります。そして、久寿2年(1155)に源義賢が源義平の侵攻を受け大蔵合戦で討死すると、義賢の2男で僅か2歳だった木曽義仲(幼名:駒王丸)が斎藤実盛等の働きにより密かに戦場から離れ兼遠の手に送り届けられています。この事からも中原兼遠は源氏と繋がりがあり、義仲を擁護出来る一定以上の軍事力を擁していた事が窺えます。資料的な価値が劣るとされる軍記物の中では義仲を養育していた事が平家方に露呈し、義仲が謀反を企てていると噂が立つと、兼遠は京都に呼び出され、義仲に謀反の意志が無く、もしの噂が本当の事であれば自分が討伐するという起請文を提出し難を逃れたと記載されています。

子供とされる樋口兼光と今井兼平は幼少時から義仲に従い、挙兵の際は重臣として数々の功績を挙げ木曽四天王に数えられ、巴御前は義仲の愛妾になったとされます。その後、兼遠は出家して円光を名乗り菩提寺である林昌寺を創建、治承5年(1181)に亡くなったとされます。

・林昌寺・兼遠が出家して「円光」を名乗り創建したと伝えられる古寺。当初は円光寺と称していましたが、中世に数度荒廃し中興した際に林昌寺に改称、境内には兼遠の墓碑(供養塔)が建立されています。
・兼遠館跡・この館で義仲は幼少時に暮らしたとされます。現在は目立った遺構はありません。
・手習天神・兼遠が義仲の学力向上を祈念して学問の神である北野天満宮の祭神(菅原道真)の分霊を勧請して創建。
・鎮神社奈良井宿の鎮守である鎮神社は兼遠が創建したと伝えられています
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