中山道・木曽路・馬籠宿

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中山道・木曽路・馬籠宿
【 概 要 】−馬籠(岐阜県中津川市)の地は木曽谷の入口にあたる軍事的な要地で、木曽義仲の17代後裔とされる木曽義在は天文2年(1533)に領内となる馬籠宿から洗馬宿(長野県塩尻市)までの街道(現在の木曽路の前身)を整備しています。永禄元年(1558)には相模国三浦半島出身の島崎重綱が木曽氏に従い、馬籠城に配されていた事が記録に残っています。天正12年(1584)の豊臣家と徳川家の対立である小牧・長久手の戦いでは木曽氏は豊臣方に与した為、徳川の大軍が木曽谷に侵攻し、馬籠城には重綱の嫡男重通が配されています。徳川軍は菅沼定利、諏訪頼忠、保科正直など7千の兵を馬籠宿の北端近くに陣を張り馬籠城を攻撃しようとしましたが、勝利を望めないと悟った重通は城を放棄して妻籠城に退いています。慶長7年(1602)に中山道(木曽路)が開削されると江戸日本橋から43番目の宿場町、馬籠宿が成立、重通の長男が馬籠宿、次男が妻籠宿の本陣を命じられ、宿場の開発に尽力しています。馬籠宿は馬籠峠の中腹に位置している事から町全体が略、傾斜地に町割され、各戸は傾斜に合わせて造成され周囲を石垣で囲い独特な町並みが形成されました。江戸時代後期の天保14年(1843)に記録された「中山道宿村大概帳」によると野尻宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒、問屋2軒、家屋69軒、人口717人、宿場の規模は3町33間で構成された事が判ります。明治28年(1895)と大正14年(1915)の火災により馬籠宿の殆どの古民家が焼失しましたが、傾斜地という事もあり大規模な近代化が図られず、落ち着いた宿場町らしい町並み残されています。又、本陣の島崎家は島崎藤村の実家として知られ、藤村の作品には度々馬籠宿や宿場の住民が描かれています。

馬籠宿:見所

島崎藤村生家
□−島崎藤村生家

島崎家は江戸時代初頭に馬籠宿の開宿に尽力した事を受けて、本陣職や問屋、庄屋を歴任しました。最後の当主となった島崎正樹は平田派国学者であると共に文豪島崎藤村の父親として知られ、小説「夜明け前」の舞台にもなっています。
馬籠宿脇本陣
□−馬籠宿脇本陣

馬籠宿の脇本陣は代々蜂谷家が勤めています。蜂谷家は脇本陣職の他、年寄り役など宿場の上役や、屋号「八幡屋」を掲げ造り酒屋を生業としていました。明治28年の火災で当時の建物は焼失しましたが、残された資料が資料館で展示されています。
大黒屋
□−大黒屋

大脇家(屋号:大黒屋)は馬籠宿の問屋を勤めていた家柄で、生業として造り酒屋を営んでいました。最後の当主となった大脇兵衛門信興の日記である「大黒屋日記」が藤崎藤村の代表作「夜明け前」の題材となり舞台の1つになっています。
清水屋
□−清水屋

原家(屋号:清水屋)は馬籠宿の上役を歴任した家柄で、島崎藤村の小説「嵐」には当時の当主原家一平と思われる人物が登場しています。現在の建物は明治28年の火災で焼失後に再建されたもので国登録有形文化財に登録されています。
永昌寺
□−永昌寺

永昌寺は戦国時代の永禄元年(1558)、馬籠城の城主島崎重通によって創建された寺院です。木曽氏が没落した後も島崎家は馬籠宿の本陣職を歴任し永昌寺はその菩提寺として庇護されました。境内には島崎藤村の墓碑が建立されています。
枡形
□−枡形

馬籠宿の南端には枡形が設けられていました。一般的な宿場町でも防衛施設として枡形が設けられていますが、馬籠宿では2度折れで切り土になっている事から、防衛的には強固の造りとなっています。水車小屋や常夜塔などが復元されています。
高札場
□−高札場

高札場は馬籠宿の北端に位置し、幕府や尾張藩、木曽代官が発布した掟や法などが掲げられました。高札場には雨や雪を避ける為に屋根が架けられ、周囲を柵で囲む事で勝手に高札に手を加えたり、盗まれないように管理されていました。

木曽路:宿場町

贄川宿
右
木曽平沢
右
奈良井宿
右
藪原宿
右
宮ノ越宿
右
福島宿
右
上松宿
右
須原宿
右
野尻宿
右
三留野宿
右
妻籠宿
右
大妻籠
右
馬籠宿
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