贄川宿(木曽路)・観音寺

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贄川宿(木曽路)・観音寺

【 概 要 】観音寺は平安時代初期の大同元年(806)に創建された木曽路では珍しい高野山真言宗の寺院です。その後の経緯は不詳ですが、戦国時代に武田家を見限り、織田家に転じた木曽義昌を粛清する為に当地まで進軍した武田勝頼との激しい戦いに巻き込まれ、隣接する麻衣廼神社と同様に境内が大きな被害があったようです。慶長2年(1597)に珍永和尚により再興され、木曽路には真言宗の寺院が少なかった為、贄川宿だけでなく広く真言宗の宗徒達から信仰されたました。その一例として本堂内陣欄間に施された彫刻は宮ノ越宿出身の村上弥兵衛と村上弥惣右衛門が寄進したものとされ、信仰の広がりが感じられます。境内には小澤文太郎重喬の墓碑が建立されている事でも知られています。重喬は贄川宿出身の江戸時代末期から明治時代初期の国学者で、中津川出身の間秀矩(平田銕胤に師事、尊皇攘夷運動に参加、新政府軍の先導役)の紹介により万延元年(1860)から平田篤胤教えを継承する平田門人となっています。基本的には廃仏毀釈を推進した人物ですが明治2年(1869)に死去すると観音寺に葬られています。観音寺山門は江戸時代後期の寛政4年(1792)に造営されたもので、入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚鐘楼門、桁行4.6m、梁間3m、上層部華頭窓、高欄付、昭和60年(1985)に塩尻市指定有形文化財に指定されています。参道には元禄2年(1688)、享保13年(1728)、寛政12年(1800)の年号が刻まれた庚申塔が建立されており、贄川宿が庚申信仰の盛んな地域だった事が窺えます。本尊は室町時代に彫刻された十一面観音像。

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