中山道・木曽路・贄川宿

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中山道・木曽路・贄川宿
【 概 要 】−贄川(長野県塩尻市贄川)の地は木曽谷の出入口にあたる交通の要衝、軍事的拠点として重要視され南北朝時代の建武2年(1334)頃に木曽家村が贄川関所を設けて4男である木曽家光を配して守りに当らせたとされます。その後の経緯は不詳ですが、贄川宿の鎮守である麻衣廼神社が天慶年間(938〜947年)、観音寺は平安時代初期の大同元年(806)に創建している事から比較的早くから開けた地域で、中世も重きを成していていた事が窺えます。地名については、古来は付近から熱い源泉が湧出る温泉があり、その様から「熱川」と呼ばれたそうですが、その温泉が枯渇し、諏訪大社(信濃国一宮)に御贄(神に供えるささげ物)として当地で採れた川魚を供進(献上)した事から「贄川」と呼ばれるようになったとも云われています。戦国時代に入り武田信玄が木曽谷に侵攻すると、後に中山道(木曽路)と呼ばれる街道筋が整備され贄川はその重要拠点の1つとして宿場町に指定され天文年間(1532〜1555年)には関所が設けられたと推定されています。永禄11年(1568)には武田信玄が木曽路の宿場町に「伝馬七疋、異儀なくこれ を出すべし、海蔵寺へ進められるものなり」との覚書が発給され、馬一疋の口付銭として洗馬宿より贄川宿が18文、贄川宿より奈良井宿12文と贄川宿を前後の料金が高い事から当地に関所があったと推定されています。慶長6年(1601)に中山道(木曽路)が正式に開削されると中山道69次中33番目(62里27町46間:約246.5キロ)の宿場町に指定され、引き続き関所も機能したと思われます。元和元年(1615)に木曽谷が尾張藩(愛知県名古屋市:本城名古屋城)領に組み込まれると、贄川宿は尾張藩と松本藩(長野県松本市:本城−松本城)との藩境になった為、引き続き重要視されました。江戸時代後期の天保14年(1843)に記録された「中山道宿村大概帳」によると贄川宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、問屋2軒、家屋124軒、人口545人だった事が判ります。昭和5年(1930)の火災により贄川宿の多くの建物が焼失した為、江戸時代の建物は殆どありませんが、唯一深澤家住宅が被害を免れ国指定重要文化財に指定されています。

贄川宿:見所

贄川関所
□−贄川関所

贄川宿は木曽谷(中山道木曽路)の出入口にあたり、人や荷物を改める為に贄川関所が設けられました。南北朝の動乱期には領主である木曽家村の4男木曽家光、江戸時代には木曽代官である山村氏の家臣が関守の任に付きました。
麻衣迺神社
□−麻衣迺神社

麻衣廼神社は贄川宿の鎮守で、平安時代の天慶年間に創建したとされます。戦国時代に武田家と木曽家の争乱に巻き込まれ大きな被害を受け、その後、現在地に遷座しました。社殿(本殿)と社叢は塩尻市指定文化財。
観音寺
□−観音寺

観音寺は平安時代の大同元年に開山したと伝えられています。戦国時代に武田勝頼と木曽義昌の争いにより焼失しましたが、慶長2年(1597)に珍永和尚が再興しています。正面の山門は楼門建築で塩尻市指定文化財。
深澤家住宅
□−深澤家住宅

深澤家は贄川宿を代表する豪商で、当時は上方である京都や大坂まで商いを広げ、江戸時代末期には苗字を名乗る事が許されていました。現在の建物は江戸時代末期の嘉永7年(1854)に再建されたもので国指定重要文化財。

木曽路:宿場町

贄川宿
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木曽平沢
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奈良井宿
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藪原宿
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宮ノ越宿
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福島宿
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上松宿
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須原宿
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野尻宿
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三留野宿
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妻籠宿
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大妻籠
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馬籠宿
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