妻籠宿(木曽路)・本陣

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妻籠宿(木曽路)・本陣

【 概 要 】−島崎家(長野県木曽郡南木曽町)は馬籠宿(岐阜県中津川市山口)妻籠宿(木曽路)・本陣の本陣職を担った島崎家と同族とされます。島崎家は相模国三浦半島津久井(現在の神奈川県横須賀市)に本拠があった桓武平氏の三浦氏の一族とされ、戦国時代に島崎監物重綱が木曽谷に入り永正10年(1513)頃には木曽谷の領主木曾義在に仕えるようになったとされます。永禄元年(1558)には重綱が馬籠城(砦)の城主だったとされ、天正2年(1574)には主家である木曽義昌から重綱に対して5貫文の領地を加増し忠節を求めています。天正12年(1584)の妻籠城の戦いでは、木曽家の家臣だった山村良勝が守将として配され、それを支援する将の中に重綱が含まれ、馬籠城にいた重綱の子供と思われる重通は敵軍を前にして馬籠城を退去し妻籠城まで退いています。天正18年(1590)に主家である木曽義昌が徳川家康の関東移封に伴い下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)に移されると、島崎家は当地に残り、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは木曽路を進軍する徳川秀忠引き入り徳川本隊を、木曽家の家臣筋だった山村家が支援し、島崎家もその動きに同調した為、合戦が終了し山村家が木曽谷の代官職に就任、慶長7年(1602)に正式に中山道が開削され、妻籠宿が成立すると、島崎家は妻籠宿(重綱の次男)と馬籠宿(重綱の長男)の本陣職を命じられます。又、脇本陣である林家(奥屋)と妻籠宿の問屋業務を分け合う「半分問屋」で半月交替で人馬会所も務めた為、当初は経済的にもゆとりがあったようです。文久元年(1861)年11月1日に皇女和宮が木曽路を通過した際に妻籠宿では脇本陣の林家(奥屋)が休息所となった事から、妻籠宿(木曽路)・本陣経済的には林家(奥屋)の方が上回っていたようです(文久の改革以後、参勤交代の形骸化が進み、本陣の意味合いが薄れたと思われます)。最後の当主となった広助は馬籠宿の本陣島崎正樹の2男で、妻籠宿本陣家の養子として迎えられましたが、明治維新後は参勤交代は基本的に行われなくなり、明治3年(1870)には政府の命により本陣職の廃止が決定されました。広助が東京に出た後に本陣の施設は解体され、明治32年(1899)には本陣跡地に御料局妻籠出張所が設けられています。因みに、馬籠宿本陣家の島崎家は明治時代の文豪島崎藤村の実家で、母親の「ぬい」は妻籠宿本陣家の島崎家出身です。

現在の本陣は平成7年(1995)に島崎家に残された江戸時代後期の絵図を元に復元されたもので、木造平屋建、切妻、平入、板葺石置、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、木戸門を潜ると正面に式台付の玄関があり、玄関の正面に玄関の間、向って右側に三ノ間、三ノ間の奥には二ノ間、上段の間と続き、上段の間は床の間と出書院がある格式の高いもので裏手には身分の高い人物が利用する専用の湯殿と雪隠(便所)が設けられていました。

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