妻籠宿(木曽路)・鯉ヶ岩

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妻籠宿(木曽路)・鯉ヶ岩

【 概 要 】−鯉ヶ岩(長野県木曽郡南木曽町)は妻籠宿の北端に位置し、古くから木曽路(中山道)の名所の1つで、「鯉ヶ岩」の名称は木曽義仲の後裔である木曽義昌が妻籠城(長野県指定史跡)を改築した頃、城に詰めた武将の1人がこの岩の下で恋物語を聞かせ意中の女性を口説いた伝説に因み「恋岩」が転じたとも、巴御前が義仲との別れを惜しんだとの伝説に因み「恋岩」が転じたとも、岩の形状が鯉が飛び跳ねている様に似ている事から「鯉岩」と呼ばれるようになったとも云われています(地名の恋野の由来になったとも云われています)。妻籠城は木曽義昌によって改築されて時期は天正10年(1582)頃なので、伝説が事実とすれば、義昌が武田家を見限り織田家に転じた事で武田勝頼と交戦状態だったので、かなり不届きな武将だったのかも知れません。慶長7年(1602)に正式に中山道(木曽路)が開削され、人や荷物の往来が多くなると、その形状から名所として認識されるようになり、江戸時代後期の文化2年(1805)に発刊された「木曽路名所絵図」にも登載されていました。名所絵図は文字通り、各地の名所を見た人が判りやすいようにに多くの挿絵が描かれ、現在でいうガイドマップのようなもので、木曽路名所図会は文章を秋里籬島、挿絵を西村中和が担当しています。木曽路名所絵図では鯉ヶ岩の挿絵が1ページ丸まる描かれ、説明として「鯉巖 妻籠宿の北はづれにあり、形鯉に似たるより名に呼ぶ」と記載されています。往時は烏帽子岩(吾妻橋地区)、兜岩(神戸地区)と共に中山道三名石(三大岩)の1つに数えられていましたが、明治24年(1891)の濃尾大地震(震源は岐阜県本巣郡西根尾村、現在の本巣市、規模はマグニチュード8.4又は8.0)により鯉の頭部分が滑落し現在の様な形状(高さ約5.6m、幅約6m)になりました。鯉ヶ岩は昭和51年(1976)に南木曽町指定名勝に指定されています。

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