善光寺西街道: 稲荷山宿

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概要・歴史・観光・見所

稲荷山宿(千曲市)概要: 天正11年(1583)、越後の上杉景勝が家臣である須崎三河守に命じて稲荷山城を築き周辺の集落や寺院を集め城下町として町割りされたのが始まりとされます。天正10年(1582)に武田勝頼が自刃した事を受け、武田家が事実上滅亡し、旧武田領内が空白域となり、それに伴い上杉景勝が信州北部を掌握しました。

当初は上杉家に従った荒砥城の城主屋代秀政が当地の管理を任されていましたが、徳川家の進出に伴い不穏な行動を起こした為、その牽制の為に稲荷山城が築城されたと思われます。稲荷山宿の原形は稲荷山城の城下町として町割りされたのが始まりと推定され、地勢上伝馬などの役割も制定されていたと考えられます。

北信濃での上杉家の軍事的な最大の拠点は松代城(海津城)だったものの、稲荷山は、徳川家に従っていた真田家(後に徳川家を離反し上杉家に従った)と小笠原家に接する最前線にあり重要視されたと思われます。

慶長3年(1598)、景勝が会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)120万石の領主として移封になると、稲荷山城は廃城となりましたが、城下町だった稲荷山の町は引き続き維持されたようです。

又、稲荷山城の本丸跡地には代官所が設けれ、その後、稲荷山宿の本陣兼問屋兼庄屋を歴任した松木家が所有する事となり、当初の門は稲荷山城の裏門だったと伝えられています。

現在の冠木門は江戸時代後期に発生した善光寺地震後のもので、むくり付の玄関屋根や、式台付の玄関と共に本陣の格式を今に伝えられいます。

慶長19年(1614)に松本藩小笠原秀政によって善光寺西街道(北国西往還)が開削されると宿場町として正式に整備され、元々本宿で隣宿だった桑原宿が間宿となり、稲荷山宿が本宿に格上げされています。

ただし、稲荷山宿は江戸時代を通して概ね上田藩領だった為、松代藩の本陣は桑原宿に据え置かれています。

理由は不詳ですが、上田藩の藩庁が置かれた上田城(長野県上田市)は元々真田家の居城で因縁があったからとも云われています。

稲荷山宿は当初、新町・五日町・横町・柳町が町割りされ横町には枡形が見られ、その後、荒町・中町・五日町・柳町・八日町の5町となり各町共に市神が勧請されたそうです。千曲川の対岸には谷街道北国街道が設置されていた事もあり物資の集積地として繁栄し、江戸時代末期の文久2年(1862)には家屋436軒、人口1625人と街道随一の繁盛の地となりました。

嘉永2年(1849)に豊田庸園著、図版小田切春江で名古屋で刊行された名所図会である「善光寺道名所図会」によると、稲荷山宿について「一ヶ月に九回の市が立ち、商人多く、家数も五百軒ある繁盛の地」と表現され、当時の稲荷山宿が大きく繁栄していた事が窺えます。

さらに、稲荷山宿からは当地方では随一の八幡神社である武水別神社(当時は更級八幡宮)の境内とを結ぶ「八幡宮道」が分岐し、周囲には姥捨山伝説で名高い姥捨山の放光院長楽寺や三大長谷寺に数えられる長谷寺などの名所が点在し、それを求める人々も稲荷山宿を利用したと思われます。

明治時代以降は養蚕や絹織物などを取り扱う数多くの呉服問屋が軒を連ね、繭や生糸の集散場として北信濃随一の商都として繁栄、「第六十三国立銀行」や「第十九国立銀行」など金融機関も稲荷山宿に進出しています。

明治33年(1900)、国鉄篠ノ井線が開通した際、本来ならば稲荷山宿の中心部近くに駅舎が設けられるはずでしたが、反対運動により隣村の塩崎村(現在の長野市)に設置、さらに当地域の中心も千曲川の対岸に屋代宿に移った為、稲荷山宿の行政面、交通面の重要性が失われ、昭和4年(1929)の世界大恐慌(昭和恐慌)により経済的にも大打撃を受け衰微しました。

現在の稲荷山宿の建物は弘化4年(1847)の善光寺大地震後に建てられたものが多く、建て替えが進んでいないこともあり旧松林家住宅(稲荷山宿蔵し館)など数多くの古い建物が存在して当時の繁栄ぶりを今に伝えています。

稲荷山宿には伝統的建造物(建築物:主屋・土蔵・付属舎など)166棟、伝統的建造物(工作物:門・塀・水路・井戸など)35基、環境物件(水路・蛇枕石・極楽寺の樹木など)6件が残され、良好な町並みや当時からの町割りを有している事から平成26年(2014)に国の重要伝統的建造物群保存地区(千曲市稲荷山伝統的建造物群保存地区)に選定されています。

【 治田神社 】−稲荷山宿の鎮守である治田神社の創建は雄略天皇8年(463)、日子王(彦坐命の5世孫)が当地を訪れた際に勧請されたのが始まりとされます。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳にも式内社として記載され古くから川中島治田庄更科郷の総鎮守として広く信仰されてきました。当初は治田山の山頂に鎮座していましたが、その後、桑原村に遥拝所(上宮)が創建され、稲荷山城築城の際、桑原村から分霊を勧請し、治田神社の下宮として稲荷山宿の鎮守となりました。その後は歴代領主からも崇敬庇護され明治14年(1881)に郷社、明治33年(1900)に県社に列しました。

稲荷山宿:町並み・写真

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稲荷山宿蔵し館
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