兎川寺

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概要・歴史・観光・見所
兎川寺(松本市)概要: 恵日高照山兎川寺は長野県松本市里山辺に境内を構えている真言宗智山派の寺院です。兎川寺の創建は飛鳥時代に聖徳太子(用明天皇の第2皇子、推古天皇の摂政)が開いたと伝えられています。兎川寺には天台宗系と真言宗系の2つ宗派が存在し、中世には寺運が隆盛し両宗派合わせて24坊の支院を抱える大寺院となり大きな影響力を持ちました。南北朝の争乱時に天台宗系の衰退から一時勢いが衰えを見せたものの、歴代領主の帰依が深く、特に信濃守護職で、松本城(当時の深志城)の城主小笠原氏の祈願所として格式を保ち篤く庇護され再び寺運も隆盛します。戦国時代後期になると小笠原氏が武田氏によって滅ばされ為、庇護者を失った兎川寺は衰退、伝承によると当時の城主である小笠原長時が武田信玄に侵攻により松本城を退去した際に、城内にあったボタンを兎川寺の住職に預けたと伝えられています。

その後、松本城の城主として赴任した石川数正が庇護した事で再び境内が整備され周辺住民からも広く信仰されるようになります。慶長10年(1605)には石川康長が寺地門前を安堵、慶長19年(1614)には松本藩主に復権した小笠原秀政が寺領20石を安堵しています。兎川寺は須々岐水神社の別当にあたっていたこともあり明治時代初頭に発令された神仏分離令により明治4年(1871)一時廃寺となり本堂は山辺学校の校舎として利用されます。この神仏分離令と廃仏毀釈運動は特に松本藩では徹底的に行われ、多くの寺院が廃寺に追い込まれています(その後再興されています)。

現在の兎川寺本堂は文政3年(1820)に再建されたもので、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行5間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ、棟梁は諏訪出身の宮大工藤森広八。境内には石川数正夫婦供養塔があるなど当時を偲ばれます。松本三十三番観音霊場第33番札所。筑摩三十三番観音札所第2番札所(札所本尊:千手観世音菩薩・御詠歌:円満に 如来の光 輝きて 参るその身は うかむ嬉しき)。信州七福神:寿老人。山号:恵日高照山。宗派:真言宗智山派。本尊:千手観音菩薩。

【 兎川寺と石川数正 】−石川数正は当初、徳川家康の側近中の側近とされ、外交官的な役割を持ち、今川家との人質交渉や、織田家との外交交渉行い、大きな功績を残しています。永禄6年(1563)の三河一向一揆では宗教上の理由などから徳川家臣団が分裂しましたが、数正は信仰していた一向宗から浄土宗に改宗し一揆鎮圧に尽力し家康に対して忠義を尽くしています。その後、徳川家の家老に就任し、家康の嫡男信康の後見人、西三河の旗頭などを歴任し天正7年(1579)には岡崎城(愛知県岡崎市康生町)の城主となっています。石川数正は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が台頭すると、秀吉と徳川家の間の外交の任を担い、この間に心変わりしたのか天正13年(1585)に徳川家を出奔し豊臣方に鞍替えしています。

石川数正が徳川家を出奔した理由は判りませんが、戦国時代に主家を変える事は珍しくもない行為で、実際、数正は8万石という外様の家臣としては破格の待遇を受けています。逆に、徳川家は大きな戦力低下と共に、情報の流出を恐れ、軍制などの改革が行われています。天正18年(1590)の小田原の役では豊臣方として従軍し、その功により松本城10万石が与えられています。松本の地は古くから信濃国府や信濃守護所が置かれた政治的な要衝で、千国街道や、中山道三州街道などを押える上でも戦略的にも重要視されていた為、数正が秀吉に信頼されていた事が窺えます。石川数正は松本城(松本市)を大改修し、城下町や領内の整備にも尽力しています。文禄2年(1593)に死去、享年61歳。数正は荒廃した兎川寺の再興に尽力した事で境内には夫妻のものと伝わる供養塔(五輪塔)が建立されています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板

兎川寺:本堂・石川数正供養塔・写真

兎川寺
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