長野市: 長国寺

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概要・歴史・観光・見所
長国寺(長野市)概要: 真田山長国寺は長野県長野市松代町松代に境内を構えている曹洞宗の寺院です。長国寺の創建は天文16年(1547)に真田幸隆が開基となり伝為禅師を招いて開山したのが始まりとされます。当初は真田の庄(現在の長野県上田市真田町)にあり真田山長谷寺と称し歴代真田家の菩提寺として篤く庇護されていました。永禄7年(1564)に松尾城(当時の真田家の本城)外に移されると本格的な禅刹として整備され上州の総録・雙林寺の副録になるど大きな影響力をもつようになります。

本家筋の真田昌幸は関ヶ原の戦いで西軍に久能山に流されると東軍に付いて徳川家の信任を得た真田信之が庇護し元和8年(1623)に信之が上田から松代藩に移封されると長谷寺も随行し寺号を長国寺に改めています。長国寺は真田家の菩提寺として真田家から200石の寺領賜っただけでなく幕府からも庇護され信州の曹洞宗寺院八百カ寺を管理統括する総録所として朱印地100石を安堵されました。

長国寺境内も整備され広大な敷地には本堂を始め庫裡、江湖寮、開山堂、総門、歴代藩主霊廟(初代から4代までと松寿院の5棟)など数多く堂宇がありましたが享保2年(1717)の火災など何度も大きな災害にあい次第に規模が縮小され、明治5年(1872)の火事によって初代真田信之と4代真田信弘の霊廟と開山堂(3代真田幸道の霊廟を転用)以外は焼失してしまいました。初代真田信之の霊屋は万治3年(1660)に建てられたもの入母屋、こけら葺、正面千鳥破風、桁行3間、梁間3間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は黒漆塗り、随所に左甚五郎とされる彫刻が施され、内部の須弥壇には信之公夫妻の位牌が安置されています。初代松代藩主真田信之霊屋及び表門は大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。

4代藩主真田信弘の霊屋は元文元年(1736)に建てられたもので、宝形造、こけら葺、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、内部には歴代藩主正室の位牌などが安置、意匠等は信之の霊屋と比べるとかなり簡素で初代への遠慮や時代背景が現れていると思われます。真田信弘霊屋及び表門は江戸時代中期の霊廟建築の遺構として貴重な事から長野県の県宝に指定されています。

長国寺開山堂(旧3代藩主真田幸道霊屋)は幸道が死去した享保12年(1727)直後に建てられたもので、宝形造、桟瓦葺、桁行3間、梁間3間、当初は信之の霊屋の脇に建てられていましたが、明治5年(1872)の火災で本堂が焼失し明治19年(1886)に本堂が再建された際、曳きやにより現在地に移築されています。長国寺開山堂は江戸時代中期の御堂建築の遺構として貴重な事から長野県の県宝に指定されています。又、2代藩主真田信政の霊屋(長野県宝)も現存し諸事情により林正寺の本堂として移築されています。山号:真田山。宗派:曹洞宗。本尊:阿弥陀如来。

【 長国寺:菩提者(真田家) 】−真田信之は名将と讃えられた真田昌幸の嫡男として生まれ、幼少期は武田家への人質として過しました。武田家が滅ぶと実家に戻り、その後は昌幸と共に各地に従軍し功を挙げ、特に天正13年(1585)の徳川軍との上田合戦では大功を挙げ真田家勝利に大きく貢献します。徳川家との和睦後は徳川家康の養女である小松姫(本多忠勝の娘)を正室として迎えた事で昌幸は徳川家との関係を深めます。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは昌幸、幸村が西軍に与する中、信之は東軍に与し、徳川秀忠に従軍し上田城攻めにも参加し戸石城を接収する功績を挙げています。

戦後、真田宗家は改易となりますが、信之はその遺領を引き継ぐ形で9万5千石が安堵され上田藩を立藩、ただし、上田城は秀忠軍が攻めあぐねた名城だった為は廃城となり藩庁は信之の居城である沼田城(群馬県沼田市)とされました。元和8年(1622)、松代藩(藩庁:松代城)13万石で移封となり初代松代藩主に就任、明暦元年(1656)に次男真田信政に家督を譲って隠居します。

信政は2年後に死去した為、3代藩主を巡る御家騒動が勃発し、結果、幼少ながらも信政の嫡男幸道が藩主に就任し、信之の長男信吉の跡を継いだ真田信利が沼田領3万石が分知され沼田藩が立藩、松代藩は10万石になりました。

3代幸道は武勇に優れた人物で関口流柔術や神道流剣術などを極めたとされ「松代侯詩集」などを編纂、しかし、幕府から多大な普請役を仰せ付かされ一気に財政が悪化します。幸道には嫡子がいなかった為、兄である信就の7男信弘を養嗣子として迎え、信弘が4代藩主に就任しています。信弘は藩政改革に積極的に取り組み、当時1万両あったとされる借財を完済し、晩年には逆に3万両の貯蓄をしたとされます。

6代藩主・真田幸弘は4人の男子に恵まれたものの、全員早世した為、彦根藩主・井伊直幸の9男幸専を養子として迎え7代藩主に就任させています。幸専は当初から子供に恵まれなかった事から松平定信の次男(年齢的には長男)・幸貫を養嗣子として迎え8代藩主に就任させています。

松平定信は8代将軍・徳川吉宗の孫で白河藩主、幕政では老中などの要職を歴任し寛政の改革を成し遂げた人物だった為、真田家も徳川家に近い譜代大名と同格に列しました。幸貫も幕政に参加し老中などの要職を歴任、天保の改革などに大きく係わり、藩政でも佐久間象山などを登用し財政再建や人材育成などに尽力した事で名君とされます。

10代藩主真田幸民は戊辰戦争の際、比較的早い段階で新政府軍に与し北越戦争、会津戦争など各地に従軍し、その功で賞典禄3万石を加増され明治維新を迎えています。長国寺(長野市松代町)は真田家歴代の菩提寺で真田家墓所は国指定史跡に指定されています。

長国寺の文化財
・ 初代松代藩主真田信之霊屋及び表門−万治3年(1660)−国指定重要文化財
・ 松代藩主真田家墓所(長国寺境内一帯)−国指定史跡
・ 4代松代藩主真田信弘霊屋及び表門−元文元年(1736)−長野県指定県宝
・ 開山堂(旧3代藩主真田幸道霊屋)−享保12年(1727)−長野県指定県宝
・ 恩田木工民親の墓−長野市指定史跡

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(開山堂)-長野市教育委員会
・ 現地案内板(松代藩主真田家墓所)-長野市教育委員会・長国寺

長国寺:写真

総門
[ 付近地図:長野県長野市松代町 ]・[ 長野市松代町:歴史・観光・見所 ]
参道 本堂 境内 開山堂
放光殿 鐘楼 真田信之霊屋表門 真田信弘霊屋


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