八幡神社(塩尻市奈良井)

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概要・歴史・観光・見所
八幡神社(奈良井宿)概要: 八幡神社は奈良井宿の下町に鎮座し、その下町の氏神として信仰されてきました。案内板によると「 奈良井宿下町の氏神で、祭神は誉田別尊。奈良井宿の丑寅の方角にあたり、鬼門除けの守護神として崇敬されたともいわれる。5月初旬の春祭りには、下町明友会の若い衆が長持行列をくりだす。かつては境内の舞台で芝居を演じていたという。」とあります。

八幡神社の創建は天正年間(1573〜1592年)に、奈良井地域の領主である奈良井義高が誉田別尊の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。義高の館から見ると北東にあたり、鬼門鎮護の神社として崇敬庇護されました。義高は木曽義在の子供で義康の弟とされる人物で、当地に配された際に地名に因み奈良井氏を称したとも考えられる事から、形式上は木曽氏は木曽源氏である源義仲の後裔となり、源氏の氏神である八幡神を勧請し守護神として祭ったのかも知れません。

又、城下である奈良井宿を計画した際、北東に位置し、東端に当たる地に氏神である八幡宮を、逆に、南西の方角で西端に当たる地には奈良井宿の鎮守である鎮神社を配して裏鬼門鎮守とし、霊的にも堅固な町割を行ったとも考えられます。

当時は、城下町や集落の外から入ってくる人は悪霊や、疫病を持ち込むという民間信仰もあり、城下町(宿場町)の両端に由緒ある神社を配する事はある種の結界を意味していると思われます。奈良井氏の没落後は奈良井宿の下町の氏神として引き続き信仰が続き5月初旬の春祭りには、下町明友会の若い衆が長持ち行列を行い、信仰の盛んな時代には境内の農舞台(舞屋)で芝居などが演じられていたそうです。

現在の八幡神社本殿は江戸時代末期に造営されたもので、一間社流造、切妻、妻入、桟瓦葺、桁行3間の拝殿兼覆い屋内部に納められています。農舞台(舞屋)も江戸時代末期に造営されたもので、切妻、妻入、鉄板葺、桁行4間、前面が全て開口でき、意匠が施された高さのある桁が特徴的で、舞台の中央は回り舞台になっています。又、八幡宮の境内周辺には旧中山道(木曽路)の街道沿いに植えられた杉並木や明治時代に奈良井宿周辺の国道の開削や、鉄道敷設の際に行き場の失った石仏194体が集められた二百地蔵があります。祭神:誉田別尊。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板

八幡神社:写真

八幡神社
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