若一王子神社

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概要・歴史・観光・見所
若一王子神社(大町市)概要: 若一王子神社は長野県大町市大町に鎮座している神社です。千国街道沿いに設けられた若一王子神社の格式の高い大鳥居若一王子神社の創建は不詳ですが社伝によると垂仁天皇の御代(紀元前29年〜西暦70年)に当時の領主仁品王が伊弉冉尊の分霊を勧請したのが始まりとされ、「仁科濫觴記」によると仁品王は崇神天皇(第10代天皇)の末の太子、垂仁天皇(第11代天皇)の弟にあたる人物で、当地に配された後は安曇野地方の開発に尽力したとされます。一方、若一王子神社の奥宮が蓮華岳(標高:2799m)の山頂に鎮座し、大町から眺める山姿や、名称、遥拝所と思われる環状列石の存在などから、蓮華岳を崇める素朴な自然崇拝が信仰の源になったと思われます。その後、仁品王の後裔とされる仁科氏が領主になり、嘉承2年(849)に祖神である仁品王とその后である妹耶姫の分霊を勧請合祀し、さらに鎌倉時代の承久2年(1220)には仁科盛遠が熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)から若一王子神の分霊を勧請し若一王子の宮と呼ばれるようになり、熊野信仰は山岳信仰と強く結びついていた為、必然的に若一王子神社も仏教色の強い神仏習合の形態が長く続けられました。さらに、承久3年(1221)の承久の乱の際、後鳥羽上皇の信任を得た盛遠が若一王子神社に武運長久の祈願の為に流鏑馬を奉納し、これが現在も継承されている流鏑馬神事の起源となっています。

若一王子神社は中世、穂高神社(安曇野市)、仁科神明宮(大町市)とともに神社の境内にある珍しい仏教色の強い若一王子神社三重塔仁科三大社に数えられ、特に仁科氏の崇敬社として篤い庇護を受け、特に永和3年(1377)には仁科盛国が本殿を再建し、弘治2年(1556)には仁科盛康が社殿の再建がされています。戦国時代末期の永禄4年(1561)、盛康の跡を継いだ仁科盛政は第四次川中島の戦いの折、武田信玄に与し佐久地方で転戦していると、居城である森城(仁科城)の居残り部隊が上杉謙信に転じた為、武田家から攻められ殺害、これにより仁科家の嫡流は断絶しています。

天正10年(1582)、仁科家の名跡を継いだ武田信玄の5男仁科盛信が織田信長の信濃侵攻により高遠城で自刃すると仁科氏は滅び庇護者を失いますが、江戸時代に入ると松本藩(藩庁:松本城)から庇護され承応3年(1654)には藩主水野出羽守忠職の命で大町村出身の宮大工金原周防によって本殿の大改修が行われ、明暦元年(1655)には幕府神領として2石5斗4合を賜っています。江戸時代に入り千国街道の整備が行われると、当地は大町宿が開宿し、日本海から齎された海産物や塩、特産物が大町宿が中継地となり、大消費地となった松本城の城下町に運ばれていきました。当然、千国街道を利用する人々も増加し、街道筋に鎮座していた若一王子神社も多くの人が参拝したと思われます。

若一王子神社の境内で茅葺屋根の異彩を放っているのが観音堂で、本来仏教色の強い建物である事から明治時代の神仏分離令で破却される例が多い中、若一王子神社では同じく仏教色の強い三重塔と共に残され、社宝として十一面観音坐像御正体残闕や十一面観音立像を所有するなど現在も神仏習合時代の名残を残しています。実際、松本藩の神仏分離、廃仏毀釈は他藩と比べても激烈を極め、実に領内の7割以上の寺院が廃寺に追い込まれ、若一王子神社では三重塔を「物見の高楼」、観音堂を「神楽殿」と名称を変更して破却を免れたと伝えられています。

神仏分離後は社号を「若一王子権現」から「若一王子神社」に改め、明治5年(1872)に村社、大正13年(1924)に郷社、昭和6年(1931)に県社に昭和51年(1976)には別表神社(旧官国幣社格)列しています。仁科三十三観音霊場:第1番札所(札所本尊:十一面観音・御詠歌:御熊野を ここに移して 世を護る 神と仏の 恵み尊し)。信濃國十四社巡り。祭神:若一王子、天照大神、伊弉冉尊、仁品王、妹耶姫。

現在の若一王子神社本殿は弘治2年(1556)に仁科盛康の寄進によって再建されたもので一間社、神仏習合時代の名残である重厚な茅葺屋根の若一王子神社観音堂隅木入春日造、檜皮葺、室町時代末期に建てられた神社本殿建築の遺構として貴重な存在で昭和30年(1955)に国指定重要文化財(旧国宝)に指定されています。三重塔は木食古信法阿の発願で江戸時代中期の宝永8年(1711)に建てられたもので、宝形屋根、こけら葺、三間三重塔婆、桁行4.2m、梁間4.2m、高さ20.21m、華美な意匠は少ないものの、蟇股には十二支の彫刻が施され、内部の須弥壇には金剛界五仏が安置、長野県内で神社の境内に三重塔があるのは当社と、新海三社神社(長野県佐久市)の2社しななく貴重な事から昭和41年(1966)に長野県の県宝に指定されています。

若一王子神社観音堂は江戸時代中期の宝永3年(1706)に造営されたもので、宝形造、茅葺、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り、内部には彩色、彩画が施され、同時期に制作された宮殿(入母屋、妻入、板葺、桁行1間、梁間1間)が設置、平成23年(2011)に長野県の県宝に指定されています。さらに、若一王子神社社叢が長野県指定天然記念物に境内社である八坂神社の旧神輿が大町市指定有形文化財にそれぞれ指定されています。

若一王子神社の文化財
・ 本殿−弘治2年−一間社、隅木入春日造、檜皮葺−国指定重要文化財
三重塔−宝永8年−高さ20.21m、宝形、こけら葺、方三間−長野県県宝
・ 十一面観音坐像御正体残闕−銅造、像高18.5cm−長野県県宝
・ 流鏑馬−承久3年以降、日本三大流鏑馬−長野県指定無形民俗文化財
・ 若一王子神社社叢−22867u−長野県指定天然気炎物
・ 観音堂及厨子(宮殿)−宝永3年−宝形造、茅葺、方三間−長野県県宝
・ 十一面観音立像−桧材、一木造、像高役180cm−大町市指定文化財
八坂神社の旧神輿−江戸中期−一間社、高さ155cm−大町市指定文化財

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(由緒沿革)-若一王子神社
・ 現地案内板-大町市教育委員会
【 付近地図 】
長野県大町市大町

若一王子神社:三重塔・本殿・観音堂・写真

朱色の鳥居は境内に神聖な雰囲気を与えています 若一王子神社三重塔は拝殿の向かって右斜め前方に配置されています 若一王子神社参道石畳みの奥に見える拝殿と荘厳な境内 若一王子神社本殿は数少ない仁科氏が造営した社殿の遺構です
若一王子神社観音堂は意匠は素朴ですが重厚な御堂です 若一王子神社拝殿は元伊勢神宮の社殿で、式年造替で当地に移築されました 若一王子神社の境内社である八坂神社はかなり歴史がある神社です 若一王子神社の境内に数多くの境内社があります

若一王子神社:歴史的建造物

仁科盛長が造営した若一王子神社本殿本殿
・本殿は戦国時代の弘治2年(1556)に当地を支配した仁科盛長の尽力により造営されたもので、約100年後の江戸時代の承応3年(1654)に地元の名工(金原周防:4代目定兼)により改修されています。本殿の建物は一間社隅木入春日造、檜皮葺、箱棟、国指定重要文化財。
伊勢神宮の社殿だった若一王子神社拝殿拝殿
・若一王子神社拝殿は昭和48年(1973)の伊勢神宮(三重県伊勢市)第60回式年遷宮により内宮外玉垣南御門他に建立されている神宮社殿を譲り受け、昭和50年(1980)に移築したもので、木造平屋建、流造、銅板葺、平入、正面3間向拝付。
木食古信法阿が浄財を募った若一王子神社三重塔三重塔
・三重塔は江戸時代中期に当地の名僧として知られた木食古信法阿の尽力により造営されたもので、当時の若一王子神社は神仏習合していた為、仏教色の強い建物です。明治時代の神仏分離、廃仏毀釈でも奇跡的に破却を免れています。三間三重塔婆、こけら葺、長野県の県宝。
十一面観音像が祭られていた若一王子神社観音堂観音堂
・観音堂は江戸時代中期に地元の名工により造営された御堂建築で、木造平屋建て、寄棟、茅葺、正面1間向拝付き、神仏習合時代は若一王子神社の本地仏である十一面観音像が安置されていました。明治時代の神仏分離、廃仏毀釈でも奇跡的に破却を免れています。長野県の県宝。
若一王子神社の境内社である八坂神社八坂神社
・八坂神社は大町の水源地である居谷里天王沢の守護神として信仰されてきた神社で、江戸時代に入り境内に分霊が勧請されました。内部には大町市指定有形文化財に指定されている旧神輿(宮殿)が安置されています。



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