貞祥寺

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概要・歴史・観光・見所
貞祥寺(佐久市)概要: 洞源山貞祥寺は長野県佐久市前山に境内を構えている曹洞宗の寺院です。貞祥寺(佐久市)・参道入り口にある石造寺号標当寺の創建は戦国時代の大永元年(1521)、前山城の城主伴野佐衛門佐貞祥が祖父である伴野光利と父親である伴野光信の追善供養の為、節香徳忠禅師(貞祥の叔父、慶徳寺の僧:埼玉県比企郡滑川町)を招き、伴野家の菩提寺として開山したのが始まりと伝えられています。光利は延徳元年(1489)に死没、享年85歳、光信は永正12年(1515)に死没、享年76歳、寺号は開基者である伴野貞祥の名前に起因していると思われます。「貞祥寺開山歴代略伝」によると、節香徳忠禅師が開山して間もなく、異形な恰好をした2人の武士が貞祥寺を訪れ、3日後に小宮山村の柏山宗左衛門という人間が死ぬが決して葬式に出て成仏させてはならない。宗左衛門は生前の行いが非常に悪かったから我々が地獄に連れていくと告げ姿を消しました。武士の言った通り宗左衛門が死に葬式を出す事になった節香徳忠禅師は、式の途中に空が急に暗くなり雷雲が宗左衛門の死体を持ち去ろうとした為、棺に念珠を打ちつけ念仏を唱えると何もなかったように空が晴れたと記載されています。この手の逸話は意外と多く、死体を持ち去ると云われる妖怪の「火車」として知られています。地域によって差があるものの、多くは葬儀や葬列の際に天候が変更し、火の玉や猫、鬼、武者などが死体を奪いにやってきて名僧や武芸者によって阻止される内容の伝承が多いようです。特に「火車」の正体が猫が多いには、猫が死体に近くづくと縁起が悪いといった諺や逸話などが各地に残り、それらの話が発展したのかも知れません。

上記の話が元になった伝説が幾つか生まれたようで、「佐久口碑伝説集」には貞祥寺石柱山門の奥に控える苔生した茅葺屋根の山門貞祥寺の僧侶と鬼との話が乗せられています。一つは「鬼の手判」という話で、当寺の名僧が葬式を行い御経を読んでいると、空が急に暗くなり黒雲が死者の棺の上に降りてきて、参列者は恐れ戦き式を離れましたが、名僧はひたすら御経を読み続けました。その瞬間、黒雲が棺の中に入り込もうとした為、名僧は数珠で打ち払うと黒雲が消え空も晴れ渡りました。すると、棺の手前に奇妙な腕が落ちていた為、名僧は寺に持ち帰ると、数日後、鬼が訪ねてきて、その腕は自分のもので、1週間以内に付ければ元に戻るので返して欲しいと懇願しました。名僧は、腕を返す代わりに手判を押していけと話すと、鬼は言われた通り手判を押し腕を持ち帰ったそうです。もう一つが「鬼石」という話で、昔、貞祥寺の近くで鬼が出現し住民達が大変困っていると、徳忠大和尚が念仏と数珠により鬼の腕を折って退治しました。すると数日後、鬼が寺に現れ、もう悪さをしないから腕を返して欲しいと懇願し腕を返してやると、鬼は腕を元通りに直し大きな石を持ち上げました。現在、洞源橋の袂にある大石が鬼が持ち上げたと伝わる石で「鬼石」と呼ばれてるそうです。両方の伝説は「貞祥寺開山歴代略伝」に共通する点も多く、やはり死体を持ち去ろうとする「火車」の鬼版といったところで興味深い話です。

伴野氏は戦国時代に逸早く甲斐武田家に従い信任を得た為、貞祥寺の三重塔は小さいですが凛とした緊張感があります貞祥寺も武田家から庇護され現在でも武田信玄の朱印状が残されています。天正10年(1582)、織田、徳川連合軍による甲斐信濃侵攻により武田家が滅び、さらに、同年本能寺の変で織田信長が自刃すると、旧武田領が空白域となり、周辺の大大名である徳川家康・北条氏直・上杉景勝が争った所謂「天正壬午の乱」が勃発します。伴野信守は小田原北条氏に与した為、徳川家に与した依田信蕃が前山城に侵攻し激戦の末に前山城は落城、信守も自刃、嫡子貞長も討死し伴野氏は没落しています。貞祥寺も兵火で堂宇が焼失し、さらに庇護者を失い衰微したと思われますが、信蕃の跡を継いだ蘆田城の城主依田康真が庇護し天正15年(1587)には銅100貫文が寄進されています。

江戸時代に入ると貞祥寺は幕府や歴代小諸藩(藩庁:小諸城)の藩主から庇護され、慶長2年(1597)には小諸城の城主仙石秀久から寺領100貫文を寄進、慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光から朱印15石を安堵、末寺12ヶ寺を有する寺院として寺運も隆盛し当地域を代表する名刹となりました。寺宝が多く二十五条袈裟、徳川家康像、伴野貞祥像、達磨像、五祖像、出山釈迦像、武田信玄朱印状、依田氏寄進状などを所有しています。山号:洞源山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

貞祥寺は現在も七堂伽藍を備える広大な境内を構え、佛殿・法堂・僧堂・庫裏・山門・東司(西浄)・香水海(浴室)・開山堂・経蔵・知客殿・方丈・江湖寮・宝蔵・鐘楼・位牌堂・地蔵堂・三重塔などが軒を連ね、苔むした境内は古刹の雰囲気が満ち溢れています。多くの堂宇の中でも、惣門、山門、三重塔は江戸時代に建てられた寺院建築の遺構として貴重なことから長野県の県宝に指定され偉容を誇っています。惣門は江戸時代初期の承応2年(1653)に建立された境内最古の建物で一間一戸、切妻、銅板葺、薬医門形式(中央の本柱の背後に控柱があり、計4本の柱で屋根を支える門形式)、間口11.09尺、奥行7.70尺で彫刻などの意匠は新海三社神社東本社(長野県佐久市:室町時代建築、国指定重要文化財)に類似しているとされます。

貞祥寺山門は江戸時代初期の寛文12年(1672)に建立されたもので三間一戸、入母屋、茅葺、八脚楼門、外壁は真壁造り素木板張り、棟梁は小泉三右衛門・重右衛門、下層:間口21.26尺、奥行14.72尺、上層:間口19.62尺、奥行13.09尺、下層の左右には仁王像として増長天、持国天が安置されています。三重塔は江戸時代末期の嘉永2年(1849)に建立されたもので、宝形屋根、銅板葺、高さ15.88m、方2.75m、棟梁は幕末の名工と呼ばれた小林源蔵、当初は小海町にあった神光寺(松原神社の別当寺院)が所有していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により手放す事となり明治3年(1870)に貞祥寺境内に移されています。

又、貞祥寺境内には島崎藤村の旧宅が移築保存され境内を含む周囲一帯が「貞祥寺郷土環境保全地域」に指定されています。長野県佐久市大字前山505に境内を構えている倉沢薬師堂は貞祥寺が管理している御堂で、明和5年(1768)建築、木造平屋建て、入母屋、鉄板葺き、桁行5間、正面軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、棟梁は吉右衛門泰享、江戸時代中期の御堂建築の遺構として貴重な事から平成10年(1998)に佐久市指定文化財に指定されています。

【 貞祥寺:菩提者(伴野家) 】−貞祥寺を菩提寺とする伴野家は小笠原長清の6男時長が佐久郡伴野荘の地頭として就任し、地名に因み伴野氏を称したのが始まりとされます。伴野家は小笠原家の惣領職を担うなど繁栄していましたが弘安8年(1285)の「霜月騒動」で政争に破れ主要な一族が悉く討ち取られ、領地が没収された為、没落を余儀なくされます(敗北した安達泰盛に与した伴野彦二郎盛時が自害に追い込まれています)。元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡すると、伴野家一族である伴野弥三郎長房は旧領復帰を画策し、足利尊氏に接近し一定の地位を確立し、伴野荘の地頭職に復権しています。南北朝の動乱では足利尊氏方である北朝に属し正平8年(1353)の京都での戦いで長房は討死しています。その後も足利将軍家に従い奉公衆に加えられ、領内では伴野長朝が前山城を築城しています。

15世紀中頃に入ると岩村田城の城主大井氏との対立が激しくなり、文明11年(1479)には大規模な戦闘が行われ、勝利を収めた伴野光利は伴野荘の大部分を掌握し、さらに、一族である野沢伴野氏を破り一族の統一も果たしています。戦国時代に当主となった伴野貞祥は大永元年(1521)に祖父である光利と父親である光信の追善供養の為に貞祥寺を開き、伴野家の菩提寺として境内を整備しています。武田信玄が信濃国に侵攻すると武田家に積極的従い居城である前山城が武田家の事実上戦略的拠点として利用され、これにより武田家が佐久郡を比較的容易に平定する要因の1つとなっています。天正10年(1582)、武田勝頼が自刃して武田家が滅びると、小田原北条氏に属しましたが、徳川家康に属した依田信蕃に攻められ前山城は落城、当時の当主伴野信守は自刃して伴野家は没落しています。

伴野家の居城である前山城は室町時代の文明年間(1469〜1487年)頃に伴野光利が築いたと推定されています。伴野家はそれまで伴野館を本拠としていましたが、伴野館は鎌倉時代に見られた武家屋敷のように単郭の周囲に堀と土塁、板塀を回した程度の規模だった為、大井氏との対立や、武田家の佐久郡侵攻に備え、より防衛力に富む山城が必要とされました。前山城は中沢川を天然の堀と見立て、北東に延びた尾根沿いに多数の郭を設け、山頂付近に本丸、その南側に二の丸、南西方向に三の丸として、堀切や土塁、空堀などが巧みに配されていました。

伴野家が武田家に屈すると、前山城は武田家の信濃進出への拠点の1つとして拡張、整備が行われ重要視された事からも、貞祥寺が武田家から庇護を受けたのもうなずけます。貞祥寺は前山城から見るとやや離れた南東方向に位置し、城下町からは外れた所に境内を構えた印象を受けます。時代背景は判りませんが、貞祥寺は奈良時代以前に創建されたと伝わる真楽寺(御代田町)の甲賀三郎伝説の舞台にもなっている事から、前山城が築かれる以前に、前身寺院が現在地に存在していたかも知れません。

【 貞祥寺と人間魚雷「回天」 】−長野県佐久市前山は太平洋戦争時に劣勢だった日本の挽回を図る為に水中特攻兵器人間魚雷「回天」を考案し、貞祥寺の檀家の一人である仁科関夫少佐生誕地だった事から貞祥寺境内には「回天の碑」と「回天の模型(1/3)」が建立されています。回天は太平洋戦争末期に開発、火薬は特攻機の約6倍とされ、一撃で戦艦を沈没する威力があったとされ、仁科関夫少佐自ら回天に乗り込み敵艦に体当たり特攻を試みて戦死したとされます。貞祥寺の境内には世界平和を祈念すると同時に長野県出身者戦没並びに殉職搭乗員である仁科関夫少佐、北村十二郎少尉、中島健太郎大尉、宮澤一信中尉の慰霊の為に「回天之碑」が建立され、石碑には殉職搭乗員の英霊150余柱、帰らざる潜水艦7隻、その乗員810余柱と刻まれています。

【 貞祥寺と神光寺 】−三重塔の元の所有者だった藤島山清浄院神光寺は小海町松原の長湖の湖畔に境内を構え、天長3年(826)に慈覚大師円仁により創建されたと伝わる古寺で、往時は松原諏方神社の別当寺院として寺領30石が安堵され複数の末寺(泉龍寺、医王院、秀光寺、極楽寺、万性院)を擁し当地域を代表する大寺院でした。境内には弘化2年(1845)に再建された三重塔をはじめ本地堂、十王堂、三王堂、惣門、神殿、阿弥陀堂、観音堂など七堂伽藍が整備されていましたが、明治時代初頭の神仏分離令により別当だった光俊は還俗し松原諏方神社の神官に転じた為、神光寺は廃寺となり、三重塔は貞祥寺に売り払われ、境内に移築されました。

薬医門を簡単に説明した動画

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-佐久市教育委員会
・ 現地案内板-長野県教育委員会・佐久市教育委員会
・ 現地案内板(貞祥寺郷土環境保全地域)-長野県
・ 現地案内板-佐久市観光協会
【 付近地図 】
長野県佐久市前山

貞祥寺:三重塔・楼門・写真

貞祥寺の参道にある苔生した石段と両脇の玉石垣 貞祥寺参道石畳みは苔で覆われています 大木越に見える貞祥寺総門と土塀、その前の石燈篭 手水鉢には貞祥寺境内裏山の湧水を引き入れていて大変冷たいです 貞祥寺総門から見上げた歴史が感じられる山門(楼門)
貞祥寺植栽越に見える山門(楼門)右斜め前方からの画像 貞祥寺山門から見える境内と両脇から睨みつける仁王像 貞祥寺回廊越に見える境内に時を告げる鐘楼 貞祥寺本堂右斜め前方からの画像とその前の植栽 貞祥寺鐘楼は銅板屋根に葺き替えられています
貞祥寺僧堂では僧侶達の厳しい修行が行われます 貞祥寺境内の庭園には山から引き込んだ沢水による幽玄な池があります 貞祥寺石段から見上げた三重塔の遠景画像 貞祥寺三重塔の拡大画像 貞祥寺三重塔の麓から見下ろした本堂と境内

貞祥寺:境内・見所

惣門惣門
・貞祥寺惣門は江戸時代初期の元和8年(1622)に造営されたもので、切妻、銅板葺、一間一戸、薬医門、柱は親柱は角柱、控柱は円柱が採用される珍しい形式、木鼻の彫刻は室町後期の特徴が見られます。長野県:県宝。
山門山門
・貞祥寺山門は江戸時代前期の寛文12年(1672)に造営されたもので、入母屋、茅葺、三間一戸、八脚楼門、棟梁である小泉家に残された「小泉家文書」が残され、建築年代や棟梁が明確で貴重とされます。長野県:県宝。
三重塔三重塔
・貞祥寺三重塔は江戸時代後期に小海町藤嶋に境内を構える神光寺に建てられたものですが、松原諏方神社の別当寺院だった為、明治時代初頭の神仏分離令により廃寺に追い込まれ貞祥寺に移築されました。長野県:県宝。
本堂本堂
・貞祥寺本堂(金堂)は江戸時代中期に造営されたもので、入母屋、銅瓦棒葺、正面千鳥破風、平入、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、長野県に残される曹洞宗本堂建築の中では最古の部類とされ貴重な伝統的建造物です。
島崎藤村旧邸宅島崎藤村旧邸宅
・元々は小諸城の城下に建てられた武家屋敷とされ、明治時代に島崎藤村が小諸に赴任した際に6年間居宅として利用されました。その後、本間家の所有となり、昭和に入り本間家から寄贈を受け貞祥寺の境内に移築されました。
僧堂僧堂
・僧堂は別称で枯木堂とも呼ばれ、貞祥寺に勤める僧侶が座禅を行う座禅堂でもあります。建物は木造平屋建て、寄棟、銅板葺(元茅葺)、平入、内部には僧堂の本尊である文殊菩薩が安置されています。
鐘楼鐘楼
・鐘楼は山門(楼門)を正面に見ると右側に位置し回廊で結ばれています。この形式は曹洞宗の寺院の正式な伽藍配置で現在でも古式を継承している寺院や大規模寺院などで見る事が出来ます。入母屋、銅板葺(元茅葺)。
東司東司
・東司は寺院でいう雪隠、所謂「便所」の事で、「西浄」とも呼ばれていました。現在は一般的な住宅の便所(トイレ)ように庫裏に配置される例が殆どな為、単独の建物として残されているは貴重な存在です。


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