上田市真田町: 信綱寺

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概要・歴史・観光・見所
信綱寺(上田市真田町)概要: 大柏山信綱寺は長野県上田市真田町長に境内を構えている曹洞宗の寺院です。信綱寺信綱寺の創建年は不詳ですが室町時代、この地を支配した横尾采女守が一族の菩提を弔う為に開いたのが始まりと伝えられています。当初は好雪斉大柏寺と称し、横尾氏の居城横尾城の東麓にある梅ノ木にありましたが、天文17年(1548)の上田原合戦で横尾氏が滅ぶと、真田信綱(真田幸隆の長男)が大光智照禅師を迎えて中興開山し境内を打越に移し、寺号を打越寺に改称しています。天正3年(1575)、長篠の戦いで信綱が戦死すると昌幸(幸隆の3男)が真田家の家督を継ぎ、順京和尚(興国寺:長野県須坂市)を招いて打越寺を信綱の牌所と定め信綱寺と寺号を改称しています。以来、真田家が庇護し、寺宝には信綱のものとされる血染めの陣羽織や信綱、昌幸、信之の古文書等、真田家縁の品々を数多く所有しています。

尚、境内は真田氏の屋敷があった場所と推定されています。境内の高台には享保2年(1717)に再建された真田信綱夫妻の墓所(宝篋印塔)があり昭和47年(1972)に上田市(旧真田町)指定史跡に指定されています。信綱寺山門は入母屋、桟瓦葺き、一間一戸、四脚楼門、上層部外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、左右花頭窓、高欄付。信綱寺本堂は寄棟、銅板葺き、平入、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。山号:大柏山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

【 信綱寺:菩提者(真田信綱) 】−真田信綱は天文6年(1537)、武田信玄の重臣真田幸隆と河原隆正の妹(又は飯富虎昌の娘)との長男として生まれました。当時の真田家は海野平の合戦で武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍に破れ没落し上州(現在の群馬県)に逃れていましたが武田信玄に仕え功を挙げた事で真田庄の領主へ復権しています。武田信玄からの信任が篤く、元服の際、信玄の「信」の字を賜り幼名源太から信綱に改称、天文20年(1551)に初陣を果すと、次第に猛将として名を馳せるようになります。永禄4年(1561)の川中島の戦いや岩櫃城攻略戦、永禄11年(1568)の駿河侵攻、永禄12年(1569)の韮山城攻略戦、三増峠の戦いなどに従軍し武田二十四将の一人に数えられました。元亀3年(1572)の信玄の西上作戦では先鋒を務め、徳川家康との三方ヶ原の戦いでも勝利に大きく貢献しています。

信玄が死去すると跡を継いだ武田勝頼に従い、その後も各地に転戦し、天正2年(1574)、幸隆が死去した事で真田家宗家を次ぎましたが、同年、長篠の戦いで弟である昌輝と共に討死、享年39歳、戒名「信綱寺殿天室道也大禅定門」、信綱の首は陣羽織に包まれて家臣である北沢最蔵と白川勘解由がが真田庄へ持ち帰られ、縁のある信綱寺(上田市真田町)に埋葬されました。2人は殉死、北沢家は300石、白川家は200石が与えられ真田家宗家は3男真田昌幸(当時は武藤家の養子となり武藤喜兵衛)が継ぎました。正室は高梨政頼の娘(於北様)とされ娘は真田昌幸の長男真田信之の側室となり信吉をもうけたとされます(ただし、一般的に信吉は信之と正室である小松姫の長子とされます)。信綱寺は天文17年(1548)、信綱が大光智照禅師を招いて中興開山した寺院でその際、寺号を好雪斉大柏寺から大柏山打越寺に改称していましたが、信綱が葬られる事になり戒名に因み現在の寺号に改められています。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板

信綱寺:写真

信綱寺
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