真田氏本城(上田市)概要: 真田氏本城の築城年は不詳ですが、遺構から鎌倉時代の形式が一部見られることから当時の領主横尾氏に関係があった人物が築かれていたと思われます。真田氏は当城を利用する以前は信綱寺(長野県上田市真田町長8100)の境内付近を居館としていましたが天文10年(1541)の海野平合戦で武田、諏訪、村上の連合軍破れ、箕輪城(群馬県高崎市)に逃れると、その居館も廃城になったと思われます。その後、真田幸隆は武田信玄に臣従し戦功を重ね、天文20年(1551)独力で戸石城を攻略した事で旧領を回復しています。当城は幸隆が領土経営にあたり、旧横尾氏関係の砦又は山城を大改修したと思われるもので、麓の真田氏館から近く領土の中央に位置していることなどから真田氏にとって重要な城の1つと推察され真田氏本城と名づけられました(あくまで推定の上で本城と名付けられたもので、確たる記録等は無いそうです)。天正13年(1585)、当時の当主真田昌幸(幸隆の3男)が上田城に居城を移すと廃城になったと思われます。城は案内板を抜粋すると「 ・・・本郭は東西8.6m南北37mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築き、北方へ2の郭3の郭と段差を設けながら延びだし、その北側は急崖となって厳重に防備している。・・・」とあります。現在でも郭の形状や土塁などの遺構が残り昭和47年(1972)に上田市(旧真田町)指定史跡に指定されています。
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