猿飛佐助修練の場(上田市真田町)概要: 案内板によると「 猿飛佐助がこのあたりの大岩を猿の如く飛び移って早業を修行したという。」とあります。猿飛佐助は実在したという説と架空説とがあり、実在説には三雲新左衛門賢持(三雲氏は甲賀53家の一家で近江国の郷士、賢持は守護である佐々木家に仕えたとされます)の子である三雲佐助賢春説と上月佐助(伊賀忍者の下忍:下柘植ノ木猿)説などがあります。架空説は明治時代末期から大正時代にかけて立川文庫の関係者によって創作された説などがあります。一般的には真田幸村に仕えた真田十勇士の1人で忍術、武芸に優れ諜報活動などで大きな活躍をしたとされ、一説には大坂の陣で幸村や豊臣秀頼と共に薩摩に落ち延びたとも云われています。ただし、この「真田十勇士」も大正時代に立川文庫が発刊したもので事実と架空が混じっていた事から誤認した人も多く、その後真田家を描いた作品にも大きな影響を与えています。真田家は2度の徳川軍との戦に勝利し、大坂の陣では幸村が奮戦し徳川家康の本陣に迫った事から江戸時代にも庶民から絶大な人気があり「難波戦記」や「真田三代記」などの小説や軍記物、講談などが流行り、明治時代以降の作品に繋がっています。角間渓谷で本当に猿飛佐助が忍術修行したのかは不詳ですが、これらの作品から影響を受け、如何にも修行場に相応しいとして浸透したのかも知れません。
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