上田市: 大輪寺

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概要・歴史・観光・見所
大輪寺(上田市)概要: 大輪寺は長野県上田市中央北1丁目に境内を構えている曹洞宗の寺院です。大輪寺の創建は不詳ですが古くは現在の上田市真田町にあったとされ、天正11年(1583)に真田昌幸が上田城を築いた際、昌幸夫人である寒松院(山手殿:京の御前・信濃守護小笠原家家臣宇多頼忠の娘とも京の公家出身とも云われています。人質時代が多く新府城:山梨県韮崎市や大坂城:大阪府大阪市に滞在暦があります。慶長16年:1611年、昌幸が九度山で死去すると3回忌に自害したと伝えられています。)の発願により城の北東(鬼門)にあたる現在地に移されました。

慶長18年(1613)に寒松院が死去すると縁のある当寺に葬られたと考えられ、当時の上田藩主は真田信之だった為、庇護されました。信之が松代藩に移封になると一時衰退しましたが仙石上田藩3代藩主仙石政明が貞享元年(1684)に先祖である仙石忠政(法光院殿天庵宗智大禅定門神儀)の位牌を収めた事で供養料として毎年籾を10俵支給されるようになりました。

現在の大輪寺の堂宇は宝永2年(1705)に再建されたもので、真田家が善光寺を修復した際、木材を払い下げをして使用したと伝えられえています。大輪寺山門は入母屋、桟瓦葺、一間一戸、楼門形式、正面には大きな堀があり上田城の支城として機能したと思われます。大輪寺本堂は入母屋、桟瓦葺(棟瓦には六文銭)、桁行9間。境内に建立された寒松院の墓(総高211cm、二重基壇、塔身は上下二重)は昭和46年(1971)に上田市指定史跡に指定されています。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

【 大輪寺:菩提者(寒松院) 】−山手殿(寒松院)の出生には諸説あり宇多頼忠(信濃守護小笠原家家臣)の娘とも遠山右馬助(武田家家臣)の娘正親町氏(大臣家の家格を有する公家)の関係者とも今出川春季(公卿、菊亭 晴季)の養女とも云われ、山手殿が「京の御前様」と呼ばれていた事から京の公家出身と考えられています。ただし、嫁いだ武藤喜兵衛(後の真田昌幸)は武田信玄の重臣の真田幸隆の子供といっても3男で、当時は家督を継ぐ事は考えられず、身分も足軽大将程度である事から公家の関係者とは身分的に結婚するとは考えらず、後年箔を付ける為に作為的に改竄したとも考えられます。

一般的には永禄7年(1564)頃、武田信玄の養女となり武藤喜兵衛に嫁ぎ、記録が明確なものとしては村松殿(女子)、信之(信幸)、信繁(幸村)の3人の子供を得ています。その後、長男信幸と共に武田家への人質となっており、天正10年(1582)の時点では武田勝頼によって新たに築城された新府城(山梨県韮崎市中田町)に軟禁されていましたが、織田家の甲斐侵攻により武田家が滅亡すると、新府城を脱出し真田家に帰還しています。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直前には大坂城に軟禁されていましたが、直前に開放されたと見られ家臣である河原綱家に守られ上田に戻っています。昌幸、幸村父子は西軍に与した為、改易となり九度山に流される事になると山手殿は上田に留まり東軍に与して上田藩主となった長男真田信之の庇護となり、慶長6年(1601)頃に出家して大輪寺に入り寒松院を号しました。慶長18年(1613)死去、戒名「寒松院殿宝月妙鑑大姉」、一説には昌幸の3回忌に自害したとも云われています。

大輪寺(上田市)の創建は不詳ですが、古くから真田家縁の寺院だったとされ、天正11年(1583)に昌幸が上田城を築いた際、山手殿が現在地に移し、以後、篤く帰依しました。真田家が松代藩(藩庁:松代城)に移封になってからも以前程ではないにしろ庇護があり、本堂や楼門の造営には係わったとされます(移封先の松代には大林寺が創建され寒松院の墓碑が建立されています)。又、真田信之の後に上田藩主となった仙石忠政(戒名:法光院殿天庵宗智大居士)の位牌寺でもあり仙石家からも庇護されました。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-上田市教育委員会

大輪寺:写真

大輪寺
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