贄川関所(塩尻市)概要: 贄川関所は長野県塩尻市大字贄川に位置しています。贄川関所は建武の新政が行われた建武2年(1334)頃に木曽家村(木曽義仲の七代後裔)が設け家村の四男木曽家光がその任にあったことが始まりとされます。。義仲が源頼朝に追討され自刃に追い込まれた後、木曽家は没落し、家村の頃は上野国沼田(現在の群馬県沼田市)に住していましたが、南北朝の動乱時に足利尊氏に属して大功を挙げた為、安曇郡(上野・西光寺・西牧)・筑摩郡(洗馬)・伊那郡(高遠)を与えられ復権を果たし木曽谷の大部分を掌握するに至ったとされます。
江戸時代に入り中山道(木曽路)が整備されると木曽路11宿の1つ贄川宿が開かれ、その町並みの外れに設置された贄川関所も重要視されました。その後は福島宿(長野県木曽郡木曽町福島)に設けられた福島関所の副関として口留番所となり、木曽代官となった山村家の家臣が関守として赴任しました。慶長19年(1614)の大坂冬の陣では原彦左衛門、荻原九太夫、慶長20年(1615)の大坂夏の陣では荻原九太夫、千村大炊左衛門、小川源兵衛が関守として当地に赴任し、逃亡者や大坂方の間者、武器の出入を厳重に管理しました。尾張藩時代には女改めと木曽木材(白木)の流通や密移出を厳しく取り締まっていました(木曽産の木材は尾張藩の大きな財源となった為)。
明治維新が成ると街道制度が廃止され、それに伴い明治2年(1869)に贄川関所も廃止となり施設も取り壊されましたが、江戸時代初期の寛文年間(1661〜1672年)に描かれた「関所番所配置図」や「古絵図」を参考に昭和51年(1976)に復元されました。贄川関所の外観は平屋建て、切妻、板葺石置屋根、式台付玄関などが再現され、「木曽考古館」として内部には中山道(木曽路)の交通に関わる資料や旧楢川村内で発見された縄文時代の遺物などが展示されています(関所の規模:1062.6uや間取り、座敷、上番所なども往時に近づけて再現されています)。中でも展示物の1つ贄川本陣絵図は江戸時代末期に当時の贄川宿本陣の間取りを100分の1の縮尺で描いたもので、縦79cm、横57cm、昭和60年(1985)に塩尻市指定文化財に指定されています。
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