貞祥寺(伝統的建造物)

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>貞祥寺
惣門惣門
貞祥寺惣門は江戸時代初期の元和8年(1622)に造営されたもので、切妻、銅板葺、一間一戸、薬医門、柱は親柱は角柱、控柱は円柱が採用される珍しい形式、木鼻の彫刻は室町後期の特徴が見られます。長野県:県宝。
山門山門
・貞祥寺山門は江戸時代前期の寛文12年(1672)に造営されたもので、入母屋、茅葺、三間一戸、八脚楼門、棟梁である小泉家に残された「小泉家文書」が残され、建築年代や棟梁が明確で貴重とされます。長野県:県宝。
三重塔三重塔
・貞祥寺三重塔は江戸時代後期に小海町藤嶋に境内を構える神光寺に建てられたものですが、松原諏方神社の別当寺院だった為、明治時代初頭の神仏分離令により廃寺に追い込まれ貞祥寺に移築されました。長野県:県宝。
本堂本堂
・貞祥寺本堂(金堂)は江戸時代中期に造営されたもので、入母屋、銅瓦棒葺、正面千鳥破風、平入、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、長野県に残される曹洞宗本堂建築の中では最古の部類とされ貴重な伝統的建造物です。
島崎藤村旧邸宅島崎藤村旧邸宅
・元々は小諸城の城下に建てられた武家屋敷とされ、明治時代に島崎藤村が小諸に赴任した際に6年間居宅として利用されました。その後、本間家の所有となり、昭和に入り本間家から寄贈を受け貞祥寺の境内に移築されました。
僧堂僧堂
・僧堂は別称で枯木堂とも呼ばれ、貞祥寺に勤める僧侶が座禅を行う座禅堂でもあります。建物は木造平屋建て、寄棟、銅板葺(元茅葺)、平入、内部には僧堂の本尊である文殊菩薩が安置されています。
鐘楼鐘楼
・鐘楼は山門(楼門)を正面に見ると右側に位置し回廊で結ばれています。この形式は曹洞宗の寺院の正式な伽藍配置で現在でも古式を継承している寺院や大規模寺院などで見る事が出来ます。入母屋、銅板葺(元茅葺)。
東司東司
・東司は寺院でいう雪隠、所謂「便所」の事で、「西浄」とも呼ばれていました。現在は一般的な住宅の便所(トイレ)ように庫裏に配置される例が殆どな為、単独の建物として残されているは貴重な存在です。
貞祥寺
貞祥寺
【貞祥寺・概要】−貞祥寺(長野県佐久市)は中世に土豪として当地を支配した伴野家の菩提寺として創建された寺院です。三重塔の元の所有者だった藤島山清浄院神光寺は小海町松原の長湖の湖畔に境内を構え、天長3年(826)に慈覚大師円仁により創建されたと伝わる古寺で、往時は松原諏方神社の別当寺院として寺領30石が安堵され複数の末寺(泉龍寺、医王院、秀光寺、極楽寺、万性院)を擁し当地域を代表する大寺院でした。境内には弘化2年(1845)に再建された三重塔をはじめ本地堂、十王堂、三王堂、惣門、神殿、阿弥陀堂、観音堂など七堂伽藍が整備されていましたが、明治時代初頭の神仏分離令により別当だった光俊は還俗し松原諏方神社の神官に転じた為、神光寺は廃寺となり、三重塔は貞祥寺に売り払われ、境内に移築されました。太平洋戦争時に貞祥寺の檀家の一人である仁科関夫は劣勢だった日本の挽回を図る為に、人間魚雷「回天」を開発、自ら回天に乗り込み敵艦に体当たり特攻を試みて戦死したとされます。貞祥寺の境内には世界平和を祈念すると同時に長野県出身者戦没並びに殉職搭乗員である仁科関夫少佐、北村十二郎少尉、中島健太郎大尉、宮澤一信中尉の慰霊の為に「回天之碑」が建立され、回天の模型が飾られています。

長野県の町並みと建物と伝統と文化木曽路の古民家塩田平青鬼集落千国街道光前寺津金寺海野宿和田宿長久保宿望月宿
小田井宿貞祥寺布引観音小菅神社高山寺真楽寺若一王子神社信濃国分寺新海三社神社長野県・三重塔
※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。「町並みと建物と伝統と文化」は「郷土資料辞典」、「日本の城下町」、「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいていますが、私論推論が多く、情報や画像は時間の経緯によって変化している可能がありますので参考程度のものなので、不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。リンクは自由ですが、文章や画像のコピーは禁止しています。