東御市: 定津院

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概要・歴史・観光・見所
定津院(東御市)概要: 定津院は長野県東御市祢津西宮に境内を構えている曹洞宗の寺院です。定津院の創建は宝徳元年(1449)祢津城の城主祢津上総輔信貞が祢津城外に精舎を建立し拈笑宗英禅師を招き開山したのが始まりと伝えられています。拈笑宗英禅師は曹洞宗の名僧として知られ、最勝院(静岡県伊豆市宮上)の吾寶禅師に師事し、雲岫 、南極、模菴、洲菴と共に五哲に数えられ、最勝院の2世を勤め、文安4年(1447)には武田家の招きにより甲斐に東林院(山梨県甲州市勝沼町小佐手)を開山し、宝徳元年(1449)に定津院を開山しています。

祢津(根津)氏は信濃国の名族と位置付けられる滋野氏の本家筋にあたる滋野重道の2男滋野直道が祢津の地を本拠とし、地名に因み祢津氏を称した氏族です。祢津氏は海野氏、望月氏と共に滋野三家に数えられ大きな勢力があり定津院は祢津氏の菩提寺として整備されたと思われます。寺運も隆盛し、天正6年(1578)には興因寺(甲府市下積翠寺町)との間に最乗寺(神奈川県南足柄市)輪番を巡る相論が発生しています。祢津氏は戦国時代に武田家の信濃侵攻により武田家に従うようになり、天正10年(1582)に武田家が滅ぶと大名家からは没落し、本家筋は真田家の家臣、一族の一部が徳川家に従い、大名として復権し上野豊岡藩を立藩しています。

何れにしても祢津氏は当地を離れた為に庇護者を失い衰微しましたが、江戸時代に入ると領主となった松平家の庇護となり、境内背後の山中には松平忠節の奥方である了照院(長州藩家臣穴戸但馬守の娘)が婦人病の平癒を祈願したという巨岩が残されています。伝承によると了照院が婦人病に悩んでいると、日頃から信仰していた釈迦如来の化身が霊夢に立ち、その御告げ従い、巨岩に釈迦如来と多宝如来を線刻して祈願すると、忽ち婦人病が平癒した事から、御堂を造営し「吾れ死後一心こめて祈りなば腰より下の病をなさん」の歌を残したと伝えらています。以来、この巨岩は「祢津お姫様巨石」として信仰の対象となり、婦人病に悩む人々が遠方から参拝に訪れ東御市指定文化財にも指定されています。

定津院の寺宝である拈笑宗英像は文明7年(1475)に製作されたもので紙本墨画、掛幅装、縦40.4cm、横19.4cm、製作年代が明確で当時の頂相は貴重である事から昭和55年(1980)に東御市指定文化財に指定されています。現在の山門は安永2年(1773)に建てられたもので、三間三戸、入母屋、銅板葺きの楼門形式。山門背後には6地蔵が安置され、さらに参道を進むと一間一戸、入母屋、銅板葺きの鐘楼門を配置し、門の両脇には廻廊を廻すなど古寺の雰囲気が漂っています。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-東御市教育委員会

定津院:写真

定津院
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