東御市(歴史)概要: 東御市周辺は平安時代から「滋野三家」の一家である海野氏が支配した地域です。海野氏は源義朝や木曽義仲に仕え鎌倉時代には信濃東部から上野西部に影響力があったと伝えられています。南北朝では南朝に組し、当地方の有力武将として名を馳せていました。
戦国時代に入ると応仁2年(1468)の海野大乱や天文10年(1541)の海野平の戦いなどで村上氏や武田氏に敗れ海野氏の嫡流は途絶えます。
江戸時代に入ると東御市周辺は上田藩に属し、北国街道(善光寺街道)の田中宿、海野宿が開かれます。当初は田中宿と海野宿は合宿で田中宿に本陣、脇本陣が置かれ、海野宿には半月交代で伝馬役のみを行い補助的な間の宿でした。
寛保2年(1742)の大洪水で田中宿が大被害にあうと本陣、脇本陣が海野宿に移され本宿となり、田中宿が復興した後は両宿場に本陣が認められ、半月交代で伝馬役を務めました。その後、田中宿は旅籠10軒、商家14軒、茶屋6軒と繁栄しましたが慶応3年(1867)に大火により再び大被害となり海野宿とは大きく差が開きました。
明治21年(1888)に鉄道が開業すると、本来海野宿周辺に駅を誘致する予定でしたが、養蚕業を生業とする住民が多く反対され田中宿近くに駅が設けられることになりました。田中宿は近代化され当時の宿場の雰囲気は失いましたが経済的な中心地となり公共施設なども集められました。
逆に海野宿は衰退しましたが今なお当時の北国街道宿場町の町並みをよく残しており昭和62年には重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。又、祢津地方は寛永元年(1624)に小諸藩から分地を受け、除封後も祢津領として陣屋を構え歴代代官が21ケ村5560石を支配し小城下町を形成しています。
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