口留番所(南木曽町吾妻)

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概要・歴史・観光・見所
口留番所(妻籠宿)概要: 口留番所は妻籠宿の北端に位置し、近くには木曽路の名所として知られる鯉ヶ岩高札場旧熊谷家住宅などがあります。江戸時代初期に中山道を利用する旅人の人物改めや物資の搬入搬出を管理する為に妻籠宿の入口付近に設けられた番所で正保3年(1646)の資料にも「妻子御関所」の記載があります。

妻籠の地は主要街道である中山道(木曽路)から大平街道(中山道妻籠宿と三州街道番所飯田宿を結ぶ街道)が分岐する交通の要衝で軍事的にも重要視されていた事から、戦国時代に築かれた妻籠城は木曽氏関係の山城の中でも最大級の規模を誇り、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは、豊臣方に転じた木曽義昌が重臣山村良勝を妻籠城に配して、徳川方の軍勢をここで食い止めています。武田家が天正年中(1573〜1582)に領内関所を設置した際には妻籠関所も整備されたと推定され、天正18年(1590)に木曽義昌が徳川家康の関東移封に伴い下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)に移されるまで機能していたと思われます。

木曽谷が犬山城(愛知県犬山市)の城主石川光吉の領内に入ると、妻籠城が木曽支配の中心となった為、関所が機能していたのかは不詳ですが、江戸時代に入ると、木曽代官となった山村氏が福島関所の関守にも就任し、妻籠関所は福島宿に置かれた福島関所の副関として機能していたと思われます(同じく副関として贄川宿贄川関所が設置されています)。慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際には大坂方への間者や、無断での武器の出入、大坂方の軍事行動を押える為、代官山村家は家臣である馬場半左衛門、同三郎左衛門、千村助左衛門、山村清兵衛、原十郎兵衛、千村次郎左衛門、三尾将監、原籐兵衛を関守として配しています。

一般的は元和6年(1620)に妻籠関所は廃止となり福島関所に統合されたとされていましたが、近年発見された資料によると正保3年(1646)に「妻子御関所」の記載がある事から少なくとも17世紀半ば頃までには存在していた事が窺えます。ただし、元和元年(1615)以降、木曽谷は尾張藩領になっていた事から、妻籠関所は幕府の正式な関所ではなく、尾張藩独自の「口留番所」という扱いになっています。何れにしても江戸時代中期以降は口留番所は廃止され、少し離れた場所に白木番所を設置し江戸時代を通し、人物改めや荷物(主に木材)改めを行っていました。現在、番所跡には遺構はありませんが、街道との間に少の段差には石垣が残され、宿場側には地蔵沢(小さな川)が横切っていた事から、往来者は地蔵沢を渡り、関所を通過しなければいけない仕組みになっていたようです(迂回され「関所抜け」や「関所破り」などが横行した為、このような地形に設置されたと思われます)。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板

口留番所:写真

番所
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