妻籠宿

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概要・歴史・観光・見所
妻籠宿(南木曽町)概要: 中山道の木曽路は古くから東日本妻籠宿と中央とを結ぶ主要幹線の1つとして整備された街道で、平安時代に成立した「続日本記」によると奈良時代の和銅6年(713)の項目に「吉蘇路」が開かれた事が記述されています。妻籠宿の集落的な発生は不詳ですが文永年間(1264〜1275年)に沼田右馬介又は木曽讃岐守家村が妻籠城を築城している事から城下町のように形成されていったと思われます。中世に入ると、木曽産の木材が重要視されるようになり、室町時代の永享4年(1432)には妻籠宿周辺を拠点とした妻籠氏(木曽谷の領主である木曽氏の一族)が美濃国守護土岐持益の要請に答えて木材を用立てした事が記録に残されています。戦国時代になると木曽義仲の後裔を自称する木曽氏が木曽谷を掌握し、天文2年(1533)には当時の当主木曽義在により中山道の木曽路の祖形となる街道の整備が行われ妻籠宿から新洗馬宿までの宿駅を定め領内の流通路を確立している事から、妻籠宿もこの頃に成立したと思われます。妻籠宿は難所である馬籠峠を控え、伊那地方を結ぶ大平街道が合流する交通の要衝だった事から妻籠宿を望む城山には妻籠城が築かれ木曽家の領内南部の拠点としました。

甲斐の武田信玄が木曽侵攻を本格化すると木曽氏は軍門に下り、武田家主導で領内の街道整備が行われ天正年間(1573〜1592年)には妻籠宿に妻籠関所が設置され、引き続き重要視されます。しかし、武田信玄が死没し武田家に凋落が見えると、木曽氏は武田家を見限り織田方に転じ跡を継いだ武田勝頼と激しい戦が繰り広げられました。天正10年(1582)、武田家が滅び本能寺の変で織田信長が自刃すると旧武田家領は空白域となり、当時の当主木曾義昌は徳川家に与して安曇郡・筑摩郡まで大きく版図を広げました。

しかし、上記の2郡は徳川家の好に通じた小笠原氏が支配する事となり、義昌は一転して豊臣秀吉に転じて天正12年(1584)の小牧長久手の戦いを迎えます。徳川軍は木曽氏討伐を下し、大軍を木曽谷に送り込みますが、義昌は家臣である山村良勝に命じて妻籠城で籠城戦を展開し、これを撃退しています。妻籠城には後の妻籠宿の本陣家となる島崎氏や脇本陣となる林氏の名も連ねている事から、当時から既に有力な土豪であった事が窺えます。その後、秀吉の命により木曽氏は再び徳川家に従うようになり、天正18年(1590)に徳川家康の関東移封に伴い、木曽谷を離れています。新たに木曽谷の代官に就任した豊臣家の家臣石川貞清も妻籠城を拠点とした為、城下町でもあった妻籠宿は木曽谷の中心的な役割を持ちました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には妻籠城が修復され中山道(木曽路)を進軍していた徳川秀忠を迎え入れ、当地で東軍の勝利の報告を知ったと言われています。

江戸時代に入り中山道が五街道(中山道・東海道・甲州街道・日光街道・奥州街道)の1つとして改めて開削されると慶長7年(1602)に67箇所の宿場町が計画され、妻籠宿は正式に宿場町として認められています。妻籠宿には本陣、脇本陣、問屋が置かれ江戸時代初期までには口留番所が設置されるなど重要視され大平街道が交差していた交通の要衝として多くの人達が行き交いました。天保14年(1843)に製作された「中山道宿村大概帳」によると本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒(大7軒、中10軒、小14軒)が記載され宿場の長さ2町30間(約270m)は木曽路にある11の宿場の中でも小規模の方でした。

妻籠宿は大きく宿場、寺下、在郷と分かれ、宿場では木造2階建て、切妻、平入りで2階部は出桁造りで張り出し比較的間口の広い建物で構成し、寺下は光徳寺の門前町として発展、上・下嵯峨屋など間口が狭く比較的規模の小さい町屋で構成され、在郷は農家建築と町屋が混在しています。妻籠宿は明治時代以降、主要交通が街道沿いから外れた為、現在でも旧中山道宿場町の町並みを色濃く残り「伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示している」との選定基準から1245.4haが昭和51年(1976)に国の重要伝統的建造物群保存地区に昭和56年(1981)に長野県自然保護条例の郷土環境保全地区に指定されています。平成28年(2016)4月25日に木曽路(木曽路はすべて山の中〜山を守り山に生きる〜)が日本遺産に選定されると妻籠宿の町並みはその構成遺産となっています。

【妻籠宿・特徴】−妻籠宿は三州街道の飯田宿(長野県飯田市)を結ぶ大平街道の分岐点になった事から多くの旅人や商人達が利用して大きく賑いました。明治維新後に宿場制度が廃止となり近代交通が発達すると重要性が失われ衰微しましたが、近代化が図られなかった事からその分良好な町並みが残され、伝統的建造物(建築物)として主屋(150件)、土蔵(36件)、祠(5件)、納屋(2件)、門(2件)、馬屋(2件)、御堂(2件)、水車小屋(1件)、便所(1件)、本堂(1件)、鐘楼(1件)、社殿(1件)、伝統的建造物(工作物)として石造物(6件)、石碑(5件)、石仏(4件)、土塀(1件)、堀井戸(1件)、工作物(1件)、環境物件として土地(9件)、岩2件、樹木(2件)が構成要素として昭和51年(1976)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、現在は観光地として多くの観光客が訪れています。

妻籠宿の文化財
・ 林家住宅(主屋・土蔵・文庫蔵・侍門)−江戸後期〜明治−国指定重要文化財
・ 妻籠のキンモクセイ−高さ約8m、東幹周88p、西145p−県天然記念物
・ 上嵯峨屋−江戸中期−木造平屋、切妻、平屋、石置板葺−町指定文化財
・ 下嵯峨屋−江戸中期−木造平屋、切妻、平屋、石置板葺−町指定文化財
・ 熊谷家住宅−江戸中期−木造平屋、切妻、平屋、石置板葺−町指定文化財
・ 光徳寺の車付駕篭−天保年間−人力車の祖型−町指定文化財
・ 光徳寺大般若経(600巻)−寛文13年〜延宝7年−町指定文化財
・ 光徳寺薬師如来勧進帳−慶長4年−町指定文化財
・ 問屋申付状−慶長6年−町指定文化財
・ 奥谷家普請関係文書−延宝7年、明治10年など−町指定文化財
・ 木曽妻籠宿書留(2冊)−享保11年−町指定文化財
・ 桝形の跡−町指定史跡
・ 鯉岩−町指定名勝

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-文部省・南木曽町
【 付近地図 】
長野県木曽郡南木曽町吾妻

妻籠宿:町並み・写真

町並み 町並み 町並み 町並み 町並み
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妻籠宿・歴史・神社・寺院・城郭・古民家

本陣
本陣
妻籠宿:本陣
脇本陣奥谷
脇本陣奥谷
妻籠宿:脇本陣
上嵯峨屋
上嵯峨屋
上嵯峨屋
下嵯峨屋
下嵯峨屋
下嵯峨屋
熊谷家住宅
熊谷家住宅
熊谷家住宅
光徳寺
光徳寺
光徳寺
口留番所
口留番所
口留番所
枡形
枡形
妻籠宿:枡形
鯉ヶ岩
鯉ヶ岩
鯉ヶ岩
高札場
高札場
高札場
おしゃごじ様
おしゃごじ様
おしゃごじ様
延命地蔵
延命地蔵
延命地蔵

妻籠宿:名所概要

脇本陣奥谷
□−脇本陣奥谷

林家は元々、木曽氏の家臣でしたが、木曽氏の没落後は木曽代官の山村氏に従い、江戸時代に入ると妻籠宿の開発に尽力し脇本陣職、問屋を歴任しました。現在の主屋は明治12年に建てられたもので、国指定重要文化財に指定されています。
本陣
□−本陣

本陣は江戸時代初頭に妻籠宿の開宿に尽力した島崎氏が歴任しました。隣の馬籠宿の本陣の島崎家とは関係が深く、妻籠宿最後の本陣職は、馬籠の島崎氏から養子として迎えた広助で、島崎藤村の兄に当たる人物です。近年復元されています。
上嵯峨屋
□−上嵯峨屋

上嵯峨屋は妻籠宿で旅籠を生業とした家柄です。現在の建物は木造平屋建、切妻、平入、板葺石置、桁行3間半、梁間5間、江戸時代中期の旅籠建築の遺構として貴重な事から南木曽町指定有形文化財に指定されています。
下嵯峨屋
□−下嵯峨屋

下嵯峨屋は妻籠宿で旅籠を生業とした家柄です。現在の建物は木造平屋建、切妻、平入、板葺石置、桁行3間、梁間5間、江戸時代中期の旅籠建築の遺構として貴重な事から南木曽町指定有形文化財に指定されています。
旧熊谷家住宅
□−旧熊谷家住宅

旧熊谷家住宅は19世紀初頭に長屋として建てられた古民家です。木造平屋建、切妻、平入、鉄板葺、桁行3間半、梁間6間半、江戸時代後期の長屋建築の遺構として貴重な事から南木曽町指定有形文化財に指定されています。
光徳寺
□−光徳寺

光徳寺は室町時代明応9年(1500)、悟渓和尚が創建した寺院で、慶長4年(1599)の本尊薬師瑠璃光如来奉刻彫勧進張が残されています。寺宝である「車付駕籠」は明治維新前後に逐応和尚が考案したもので南木曽町指定有形文化財。
延命地蔵堂
□−延命地蔵堂

延命地蔵堂は江戸時代後期の文化10年(1813)、蘭川の川原にあった岩に地蔵尊のような影が見られるようになった事から、光徳寺の住職中外和尚が仏意と悟り、当地に運んで一宇を設けたのが創建とされます。通称「汗かき地蔵」。
おしゃごじ様
□−おしゃごじ様

「おしゃごじ様」とは古くから当地に伝わる土着の神様で土地精霊神、土地丈量神様、酒神とも云われています。安置されている場所は中山道(木曽路)と、三州街道の飯田城下を結ぶ大平街道の追分だった事から交通上の特異点でした。
鯉ヶ岩
□−鯉ヶ岩

鯉ヶ岩は古くから木曽路の名所として知られ江戸時代に発刊された「木曽路名所絵図」にも記載され中山道三名石にも数えられていました。名称は、岩の形が鯉に似ている事や、木曽氏の家臣が恋愛したとも云われています。南木曽町指定名勝。
口留番所
□−口留番所

妻籠宿は中山道と大平街道が分岐する交通の要衝だった事から宿場の出入口付近に口留番所が設けられ、人や荷物の出入りが厳しく管理されていました。現在は建物の遺構はありませんが、敷地沿いに設けられた石垣を見る事が出来ます。
枡形
□−枡形

枡形は宿場町の防衛施設の1つとして整備されたもので、2度直角を作る事で敵の侵入を防ぎ、見方が守り易い構造になっています。妻籠宿では明治23年に上部部分が改変されましたが、旧観も良く残され南木曽町指定史跡に指定されています。
ギンモクセイ
□−ギンモクセイ

ギンモクセイは妻籠宿の矢崎家の庭木として植えられたもので栽培樹で巨木として知られるものとしては最もと東に位置し高さ約8mを誇ります。大変貴重な存在である事から名称「妻籠のギンモクセイ」として長野県指定天然記念物に指定されています。
妻籠宿観光案内所
□−妻籠宿観光案内所

妻籠宿観光案内所は明治29年に飯田警察署吾妻分署庁舎として建てられた建物で、その後は吾妻村役場や婦人会食堂などで利用されました。木造平屋建て、寄棟、桟瓦葺、平入、外壁は下見板張、ペンキ仕上げ、玄関庇が特徴となっています。



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