上田城

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概要・歴史・観光・見所
上田城(別名:尼ヶ淵城)概要: 上田城は天正11年(1583)、真田昌幸によって築城された城です。上田城:真田石真田家は武田家の家臣でしたが、天正10年(1582)に織田・徳川連合軍の甲斐、信濃侵攻により主家である武田勝頼が自刃、これにより真田昌幸は織田信長の家臣で織田軍の関東方面を任されていた滝川一益に従いました。しかし、本能寺の変により織田信長が死去した事を受け、一益が関東からの撤退を決意し兵を引き上げた為、昌幸は小田原北条氏に従うようになっています。北条氏とは沼田領(群馬県沼田市:沼田城)を廻り対立した事で徳川家に転じ、さらに上杉景勝の信濃侵攻に備え、徳川家の財力をもって上田城が築かれています。天正13年(1585)、徳川家と北条家の和睦が成立し、その条件の一つとして沼田領が北条家に割譲される事が真田家に相談も無しに決定しました。昌幸から見ると真田家領(沼田領)を勝手に差し出す道理が無く、結局それを拒否し徳川家から離反して上杉家に転じ対立を深め、同年に徳川家の真田討伐が決定しました。

【 第一次上田合戦 】-徳川家康は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉など7845人の軍勢が昌幸が守る上田城に受けて派兵し、対する真田方は上田城を中心に布陣しました。昌幸は次男信繁(幸村)を春日山城(新潟県上越市)に人質として送り上杉家の援助を請うと、遊撃部隊として真田信之を戸石城に置き、後詰として上杉援兵と矢沢頼康が布陣、上田城には昌幸が入り総勢1200人の兵(武装農民を加えると3000人位の兵力だったとされる。)を領内に展開させました。徳川軍は鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世などの譜代諸将と徳川家に従う武田の遺臣、まず信之が上田城下まで誘き寄せ、城を守る前衛部隊が徳川軍と交戦、時を見計らい城まで一旦引き下がると誘き寄せられた徳川軍が上田城に一気になだれ込み、それを見た昌幸は城から一斉に矢玉を浴びせ撃退、敗走する徳川軍の背後を信之の軍が襲い、後詰の上杉軍が追撃、神川まで敗走した徳川軍の死者は1300人にのぼり、真田軍は僅か40人という大勝利だったと言われています。この事により真田家と上田城の名声は全国に広まったとされ、真田昌幸と徳川家康の遺恨が生まれました。

【 第二次上田合戦 】-慶長5年(1600)、真田家は本多忠勝の娘で徳川家康の養女を正室とした信之が東軍に与し、石田三成の盟友である大谷吉継の娘を正室とした幸村、昌幸が西軍側に付き関が原の合戦を迎えます。徳川秀忠率いる東軍38000の兵が中山道を進軍し、真田昌幸、幸村2000の兵が上田城で迎え撃つという所謂「第二次上田合戦」が行われます。当初から秀忠軍の足止めを目的とした戦いだったとされ、一旦降伏を受け入れるように見せかけて時間を稼ぎ、挑発することで徳川軍を上田城に誘き寄せ、手薄になった秀忠本陣を伏兵に急襲させる事で徳川軍を大混乱に陥れました。秀忠は上田城の攻略を諦め中山道を西上するも関ヶ原の戦いに間に合わず家康から叱責され大きく面目を無くしました。ただし関が原の本戦では東軍の勝利となった為、真田昌幸、幸村は九度山(和歌山県九度山町)に配流され上田城は廃城となり徹底的に破棄され荒廃しました。上田領は信之に与えられたものの、当初は沼田城を本城とし、上田城は徳川家への配慮から三ノ丸に居館を設ける程度に留めています。

大坂の陣で豊臣家が滅び真田幸村も自刃した事で、一応の禊が済んだ信之は元和2年(1616)に沼田城(群馬県沼田市)から上田城に本拠を移し城郭として再整備が進められましたが元和6年(1622)、完成を待たず松代城長野県長野市松代町)に移封となっています。代わって寛永3年(1626)に仙石忠政が上田に入封し上田藩が立藩、上田城は藩の主要施設として再整備され現在近い近代城郭へ大改修が行われ多くの建物が建てられました。しかし、完成には至らず、仙石氏が移封になると、その後の藩主は三ノ丸で政務を行い結局完成しませんでした。上田は城下町であると共に北国街道の宿場町で、上田市内の柳町や隣接する海野宿は当時の町並みを良く残しています。上田の地は奈良時代は信濃国の中心で、信濃国分寺国分尼寺などが点在し、鎌倉時代には塩田北条氏が領した塩田平では数多くの寺社仏閣が建てられた信州の鎌倉の異名があります。

【 上田城の縄張り 】-上田城は梯郭式平城で、本丸を中心に3方を取り囲むように二之丸、さらにその東側に三之丸が設けられ、城下町側には2重の水掘、背後(南側)の千曲川と、それを引き込んだ尼ヶ渕が天然の外掘に見立てられています。本丸には7基の櫓、枡形の櫓門2箇所が設けられ、二之丸には貯蔵施設、三之丸には藩主居館上田藩の藩庁が置かれていました。明治維新後に上田城は廃城となり多く建物が破却や民間に払い下げとなり城内には2重櫓が一基残るのみでしたが、近年になり払い下げられた2基の2重櫓を再移築し東虎口櫓門と袖塀が復元されています。現在は上田城公園として整備され国指定史跡(3基の櫓は長野県県宝)に指定、日本100名城にも選定されています。

【 上田城北櫓:概要 】-上田城北櫓は江戸時代初期の寛永3年(1626)から寛永5年(1628)にかけて上田藩主仙石忠政によって上田城が再興された際に建てられた建物です。明治4年(1871)に廃藩置県で上田藩が廃藩になると上田城も廃城となり、7棟あった2層櫓の内2棟は明治7年(1874)に上田市常磐城(新地)にあった遊郭に払い下げられました。移築後、2棟の櫓は連結され茶屋建築風に改造、金秋楼と万豊楼と呼ばれていましたが、昭和16年(1941)に目黒雅叙園(東京都目黒区下目黒)に転売される事となりました。事情を知った市民は郷土の宝を守る為に寄付を募って昭和17年(1942)に2棟の櫓を買い取り、昭和24年(1949)に現在地である東虎口櫓門の北側と南側に移築、北櫓、南櫓と呼ばれるようになり、元々あった2層櫓は西櫓と呼ばれました。3棟の櫓は上田城の数少ない遺構として貴重な事から昭和34年(1959)に長野県の県宝に指定されています。

北櫓は木造2階建て、入母屋、桟瓦葺き、桁行5間(1階は9.85m、2階は8.64m)、梁間4間(1階は7.88m、2階は6.67m)、妻入り、腰壁は下見板張り、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ(塗籠造)、内壁は真壁造り白漆喰仕上げ。

【 上田城南櫓:概要 】-上田城南櫓は木造2階建て、入母屋、桟瓦葺き、桁行5間(1階は9.85m、2階は8.64m)、梁間4間(1階は7.88m、2階は6.67m)、妻入り、腰壁は下見板張り、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ(塗籠造)、内壁は真壁造り白漆喰仕上げ。

【 上田城西櫓:概要 】-上田城西櫓は廃城後に7棟あった2層櫓の内唯一城内に残された建物です。櫓には弓狭間や鉄砲狭間などの防衛機能があるものの戦が無くなった江戸時代は倉庫として利用され、昭和4年(1929)には上田市立博物館の前身である「徴古館」として整備された際に屋根の棟瓦両端に鯱が設置されています。西櫓は木造2階建て、入母屋、桟瓦葺き(最後の上田藩主松平家の家紋である「五三桐紋」が掲げられています)、桁行5間(1階は9.85m、2階は8.64m)、梁間4間(1階は7.88m、2階は6.67m)、妻入り、腰壁は下見板張り、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ(塗籠造)、内壁は真壁造り白漆喰仕上げ。

上田城の文化財
・ 城域-国指定史跡
・ 南櫓-寛永年間-木造,2層2階,入母屋,本瓦葺-長野県県宝
・ 北櫓-寛永年間-木造,2層2階,入母屋,本瓦葺-長野県県宝
・ 西櫓-寛永年間-木造,2層2階,入母屋,本瓦葺-長野県県宝
・ 藩主居館跡-表門(薬医門):寛政2年・土塀:文久3年-上田市指定文化財

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-上田市教育委員会
・ 現地案内板

上田城:櫓・石垣・堀・土塁・写真

東虎口櫓門1
[ 付近地図: 長野県上田市 ]・[ 上田市:歴史・観光・見所 ]
南櫓1 北櫓1 南櫓2 北櫓2 東虎口櫓門2
西櫓1 西櫓2 南櫓3 南櫓4 西櫓3
石垣 北虎口 内掘 東虎口 平和の鐘


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