寒松院

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>大輪寺(長野県・上田市)
【 菩提者 】 山手殿(寒松院)の出生には諸説あり宇多頼忠(信濃守護小笠原家家臣)の娘とも遠山右馬助(武田家家臣)の娘正親町氏(大臣家の家格を有する公家)の関係者とも今出川春季(公卿、菊亭 晴季)の養女とも云われ、山手殿が「京の御前様」と呼ばれていた事から京の公家出身と考えられています。ただし、嫁いだ武藤喜兵衛(後の真田昌幸)は武田信玄の重臣の真田幸隆の子供といっても3男で、当時は家督を継ぐ事は考えられず、身分も足軽大将程度である事から公家の関係者とは身分的に結婚するとは考えらず、後年箔を付ける為に作為的に改竄したとも考えられます。一般的には永禄7年(1564)頃、武田信玄の養女となり武藤喜兵衛に嫁ぎ、記録が明確なものとしては村松殿(女子)、信之(信幸)、信繁(幸村)の3人の子供を得ています。その後、長男信幸と共に武田家への人質となっており、天正10年(1582)の時点では武田勝頼によって新たに築城された新府城(山梨県韮崎市中田町)に軟禁されていましたが、織田家の甲斐侵攻により武田家が滅亡すると、新府城を脱出し真田家に帰還しています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直前には大坂城に軟禁されていましたが、直前に開放されたと見られ家臣である河原綱家に守られ上田に戻っています。昌幸、幸村父子は西軍に与した為、改易となり九度山に流される事になると山手殿は上田に留まり東軍に与して上田藩主となった長男真田信之の庇護となり、慶長6年(1601)頃に出家して大輪寺に入り寒松院を号しました。慶長18年(1613)死去、戒名「寒松院殿宝月妙鑑大姉」、一説には昌幸の3回忌に自害したとも云われています。大輪寺(上田市)の創建は不詳ですが、古くから真田家縁の寺院だったとされ、天正11年(1583)に昌幸が上田城を築いた際、山手殿が現在地に移し、以後、篤く帰依しました。真田家が松代藩(藩庁:松代城)に移封になってからも以前程ではないにしろ庇護があり、本堂や楼門の造営には係わったとされます(移封先の松代には大林寺が創建され寒松院の墓碑が建立されています)。又、真田信之の後に上田藩主となった仙石忠政(戒名:法光院殿天庵宗智大居士)の位牌寺でもあり仙石家からも庇護されました。

【 寺  号 】 大輪寺
【 所在地 】 長野県上田市中央北
【 中興年 】 天正11年(1583)
【 開  山 】
【中興 開基】 寒松院
【 山  号 】 天照山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 釈迦如来
【 備  考 】 寒松院(寒松院殿宝月妙鑑大姉)の墓−上田市指定史跡−指定日:昭和46年
寒松院の位牌
仙石忠政(戒名:法光院殿天庵宗智大居士)の位牌
長野県大名菩提寺
真田信之松代藩主真田家小松姫真田信重真田信政高島藩主諏訪家上田藩仙石家仙石家上田藩松平家寒松院真田信綱真田幸隆・昌幸塩田北条家内藤家高遠藩主保科家・諏訪御料人飯山藩主堀家・佐久間家飯山藩主松平家・本多家泉家・小島弥太郎小笠原家仙石秀久・内藤家武田信玄龍岡藩主松平家・依田信蕃知久家望月家武田信玄福島正則木曽家・山村家木曽義仲大井信定滋野家吉良義周石川数正石川数正石川数正伴野家大井家木曽家木曽家・山村家仁科家日根野高吉
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