福島正則

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>岩松院(長野県・小布施町)
【 菩提者 】 福島正則は幼少頃から豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで大功を挙げ賤ヶ岳の七本槍に数えられました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの戦いでは東軍(徳川家康)に与し安芸国・備後国の2カ国49万8千2百石の大大名となり広島藩を立藩しました。ただし、豊臣恩顧の大名でその後も豊臣家を擁護する立場を取った為、大坂の陣では正則の参陣が認められず常に監視される立場ではありました。慶長20年(1615)、大坂の陣が終結すると幕府の支配体制強化の一環から一国一城令と武家諸法度が発令、当時の広島藩には小方城(大竹市)、三吉城(三次市)、東城城 (庄原市東城町)、鞆城(福山市鞆町)、三原城(三原市)、神辺城(福山市神辺町)の6か所に支城を設け、発令後に支城の天守を降ろすなどしましたが城郭に近い形状を維持していた事から追加の破却令が出されていました。元和5年(1619)、台風により大洪水が発生し居城である広島城が大破、正則は幕府に改修の届けを提出しましたがなかなか許可が降りず、政務や安全にも障害をきたしてきたので最小限の改修を行い事後報告しようと考えていました。ところが、この行為が武家諸法度に抵触すると断罪された為、正則は謝罪し改修した部分を破却し、嫡男である忠勝を人質に江戸に送るという条件で一応の決着が着きました。しかし、正則は破却部分を本丸のみに限定し忠勝を江戸に送らなかった為、改易は決定的となり当初は弘前藩4万7千石への移封が検討されました。正則が何故このような愚挙を演じたのかは不詳ですが、結果的には幕府の裁定を受け入れ、広島城に立て籠もった家臣達を説き伏せ開城に応じています。正則は津軽家の反対などもあり弘前藩では無く信濃国川中島四郡中の高井郡2万石と越後国魚沼郡2万5千石、合計4万5千石で移封となり、家督を忠勝に譲り出家して高斎と名乗りました。当初は須坂周辺に陣屋を構えたとされますが元和6年(1620)に忠勝が死去すると越後国魚沼郡2万5千石を返上、菩提を大乗寺(須坂市小河原)に葬ると新たに高井野に陣屋を設けて移ったと推定されています。その後は新田開発や、灌漑整備、検地など領内整備に尽力しましたが寛永元年(1624)、死去、享年64歳、戒名「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」。正則の遺骸は幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、福島家家臣の津田四郎兵衛が荼毘に付した為、その行為も違反と捉えられ福島家は改易となっています(後裔は旗本2千石で存続しています)。菩提寺は生前正則が菩提寺として定めた岩松院小布施町)で、境内には2.5mの五輪塔と霊廟が設けられています。

【 寺  号 】 岩松院
【 所在地 】 長野県上高井郡小布施町雁田
【 創建年 】 文明4年(1472)
【 開  山 】 明室覚証禅師
【 開  基 】 荻野常倫(雁田城主)
【 山  号 】 梅洞山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 釈迦如来
【 備  考 】 福島正則霊廟
長野県大名菩提寺
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