望月家

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>城光院(長野県・佐久市・望月宿)
【 菩提者 】 望月家は滋野貞主の嫡流とされ海野小太郎幸明の3男滋野重俊が佐久郡望月邑を領した事から地名に因み望月氏を称したのが始まりとされます。古くから、望月家、海野家、根津家は滋野三家と称され常に連携して事にあたり緊密な関係を維持していました。治承4年(1180)の木曾義仲挙兵の際は当主望月国親と子供である重隆は共に従軍し大功を挙げたとされ大きく勢力を伸ばしています。義仲が討死すると鎌倉幕府の御家人となり文治4年(1188)の奥州合戦や建久5年(1194)の永福寺事件、建保元年(1213)の和田合戦などで功を挙げ信濃国和田領を加増されています。鎌倉幕府滅亡直後は14代執権北条高時の次男北条時行を諏訪頼重、諏訪時継、滋野三家で擁立して挙兵、信濃守護小笠原貞宗や渋川義季、岩松経家、今川範満、下野国守護小山秀朝、鎌倉将軍府執権足利直義(足利尊氏の弟)などを次々で撃破し鎌倉を一時掌握しましたが、足利尊氏の本隊を侵攻してくると敗退し画策は失敗しています。南北朝の争乱では時行が南朝方に与した影響もあってか南朝方として行動しています。戦国時代に入ると武田家や上杉家の侵攻により衰微しますが、天正12年(1543)に当時の当主望月源三郎は海野家の流れを汲む真田幸隆の誘いに応じて武田家に従属し、その後はお互い縁組をする事で武田家一門として地位を確立しています。天正10年(1582)、武田家が滅び、本能寺の変で織田信長が自刃すると当地域には小田原北条氏が進軍、籠城戦の末、和睦が成立します。しかし、同年、今度は徳川軍が侵攻、最後の当主、望月昌頼は居城である望月城に立て籠もり抵抗しますが徳川家家臣依田信蕃の猛攻により1ヶ月後に落城、昌頼は自刃し宗家嫡流は途絶えています(真田十勇士の望月六郎は望月家出身者がモデルになったとも云われています)。城光院(佐久市)は望月家歴代の菩提寺で文明7年(1475)、望月遠江守光恒が南浦清宗禅師を招いて創建したとされ、本堂背後に建立されている古い宝篋印塔は望月家の墓碑と伝えられています。城下町は江戸時代以降は中山道の宿場町望月宿として再整備され城光院も望月宿の外れに境内を構えています。

【 寺  号 】 城光院
【 所在地 】 長野県佐久市(旧中山道:望月宿)
【 創建年 】 文明7年(1475)
【 開  山 】 南浦清宗禅師
【 開  基 】 望月遠江守光恒
【 山  号 】 望月山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 阿弥陀如来
【 備  考 】 石造宝篋印塔(望月氏墓碑・永正11年・永正13年・他2基)−佐久市指定文化財−昭和56年
石造十王像(江戸時代)−佐久市指定文化財−指定日:昭和61年
石造庚申塔(延宝年間)−佐久市指定文化財−指定日:昭和61年
長野県大名菩提寺
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