高遠保科家・諏訪御料人

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>建福寺(長野県・伊那市高遠町)
【 菩提者 】 諏訪御料人は享禄3年(1530)に諏訪家19代当主諏訪頼重と側室である小見(麻績)氏の娘として生まれたとされます。天文10年(1541)、武田信虎とは娘を正室に向かえ、小県郡の海野氏を共同で破るなど同盟関係でしたが、信虎が嫡男である武田信玄(当時は晴信)に追放されると、信玄は一転として諏訪地方への侵攻を開始、天文11年(1542)には逆に頼重が甲斐に攻め込みますが瀬沢の戦いで敗北、さらに居城である上原城を破棄し桑原城に立て籠もりますが、遂に開城します。頼重は弟の頼高と共に甲府の東光寺(山梨県甲府市)に幽閉され自刃、これにより諏訪惣領家は滅亡しました。その際、諏訪御料人も武田家に捉えられたと思われ、翌天文12年(1543)、14歳の時に武田信玄の側室となり、天文15年(1546)、17歳の時に武田勝頼を出産しています。弘治元年(1555)死去、享年25歳、戒名「乾福寺殿梅獄妙香大禅定尼」、死因や死亡場所、埋葬地などは不詳。勝頼は諏訪家の名跡を継ぎ諏訪四郎勝頼として永禄5年(1562)から元亀2年(1571)まで高遠城の城主を就任、その時庇護していた乾福寺(建福寺)に諏訪御料人の遺骨を改葬(?)又は供養塔などを建立し(現在の墓碑は元禄3年:1690年再建)菩提寺にしたと思われます。元亀2年には大龍山臨済寺(静岡県静岡市)の住職鉄山和尚を招き諏訪御料人の十七回忌法要が乾福寺(建福寺)で行われています。

保科家は古くから諏訪神社大祝諏訪家の一門である高遠氏の家臣でしたが、高遠氏は天文11年(1542)、武田信玄に呼応し本家筋である諏訪頼重を攻め諏訪惣領家の滅亡に加担、しかし、天文21年(1552)に当時の当主頼継は甲府出仕の折、自害を命じられ、高遠家も滅亡します。保科正直は武田家に従い功を挙げた事で高遠氏の遺領を引き継ぐ形で高遠城主になっています。天正10年(1582)の織田家の信州侵攻の際には飯田城で迎え撃ちましたが落城、さらに高遠城まで退き抵抗しましたが、ここでも破られ弟である内藤昌月が護る箕輪城まで大きく後退しています。その後、正直は小田原北条氏を頼り高遠城を奪還、徳川家康が侵攻していくると徳川家の家臣となり天正18年(1590)の家康関東移封の際に下総国多胡領1万石与えられ諸侯に列しています。慶長6年(1601)死去、享年60歳、戒名「建福寺殿天関透光大居士」。

保科正光は正直の長男で慶長5年(1600)に家督を譲られ、関ヶ原の戦いでは浜松城を守備するなど東軍として行動した功により旧領である高遠藩2万5千石で初代藩主となっています。その後は江戸城の石垣や堀などの普請や大坂の陣の戦功、徳川秀忠、徳川家光の上洛や日光社参の供奉などで篤く信任され、秀忠の御落胤とされる幸松丸(後の保科正之)を養子に迎え5千石が加増され3万石となっています。寛永8年(1631)に死去、享年71歳、戒名「大宝寺殿信巖道義大居士」。

建福寺伊那市高遠町)の創建は安元2年(1176)に文覚上人によって開かれたのが始まりとされ蘭溪道隆大覚禅師(鎌倉の建長寺の開山)が中興して鉾持山乾福興国禅寺に寺号を改めています。さらに天正7年(1579)に清見寺の住職東谷禅師が妙心寺派に改めています。江戸時代に入ると保科家の菩提寺として整備され正直の戒名「建福寺殿天関透光大居士」と正光の戒名「大宝寺殿信巖道義大居士」に因み大宝山建福寺に改められています。

【 寺  号 】 建福寺
【 所在地 】 長野県伊那市高遠町西高遠
【 創建年 】 安元元年(1176)
【 開  山 】 文覚上人
【 開  基 】
【 山  号 】 大宝山
【 宗  派 】 臨済宗妙心寺派
【 本  尊 】 萃厳釈迦如来
【 備  考 】 諏訪御料人(武田信玄の側室、武田勝頼生母)の墓・位牌
保科正直の墓・位牌
保科正光(保科正之の養父)の墓・位牌
長野県大名菩提寺
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