木曽家・山村家

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>興禅寺(長野県・木曽町)
【 菩提者 】 木曽家は源氏の一族である木曽義仲を初代とする名族で2代義重は木曽と仁科が安堵され仁科に移り、3代義宗は上野国沼田に移り沼田姓に改称しました(義宗の外祖父とされる沼田家国を頼り、「家」の字と藤原姓を継承したとも)。家村の代に足利尊氏に従い元弘・建武の争乱で功を挙げ再び木曽領を与えられ復権、家村は近江国にも所領を与えられ諏訪守にも就任、木曽谷に多くの城や館、砦を設けて当地方を掌握する事に尽力しています。家賢の代には木曽谷全域を概ね掌握したと思われ国人領主として確立し、応仁の乱頃に「木曽氏」に復したと見られ古文書にも「木曽殿」が散見されます。又、家豊の代から木曽義仲の後裔を前面に打ち出し文正元年(1466)に菩提寺である興禅寺に寄進した梵鐘の銘には「大檀那源朝臣家豊」が記されています(このような経緯から沼田氏の祖が木曽義仲とは一概に言い切れず、系図を改竄した可能性もあります)。戦国時代に入ると周辺地域にも勢力を広め小笠原家、村上家、諏訪家と共に信濃四大将に数えられ程大きな影響力を持ちましたが、武田信玄の信濃侵攻により上記3家は没落し、天文24年(1555)、当時の当主木曽義康は信玄に従属するようになります。その後、嫡男義昌の正室として信玄の3女を迎える事で武田家の一門に加わり一応領土が安堵され引き続き木曽谷周辺の支配が認められています。天正3年(1575)、長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れると、義昌は次第に武田家からの独立を望むようになり、天正8年(1580)に遂に武田家から離反し織田信長に属しました。天正10年(1582)の織田方による信濃侵攻では率先して協力し武田家滅亡に大功を挙げ、木曽谷の他、安曇郡・筑摩郡が与えられ版図を大きく広げましたが、同年に起こった本能寺の変で信長が死去した事で、織田家の指揮系統は無くなり、それに伴い上杉家、徳川家、小田原北条家が信濃に侵攻し、義昌は安曇郡・筑摩郡を放棄し木曽谷を守る事に専念しています。その後、徳川家康に臣従し、家康の信濃侵攻に協力する事で本領が安堵されますが、天正12年(1584)の小牧、長久手の戦いでは豊臣秀吉に与し、秀吉と家康の和議が成立すると再び徳川家の傘下とされます。これらの経緯から天正18年(1590)の家康関東移封の際、事実上減封の下総国海上郡阿知戸領1万石の領主となり、さらに義昌の跡を継いだ義利は慶長5年(1600)、素行が悪い事から改易され木曽家は没落します。

山村家は、鎌倉幕府の大学頭大江匡秀衡の後裔とされ大江良道の代に近江国山村を領した事から地名に因み山村氏を称したのが始まりとされます。その後、良道は木曽良元に仕えるようになり、跡を継いだ良利は木曽義昌の娘を正室に迎えた事で木曽家の一族として重用されるようになりました。天正18年(1590)に木曽家が下総国海上郡に移封された際、一旦随行しますが後に木曽谷に戻り土豪となりました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して行動し5千9百石が与えられ、元和元年(1615)以降は尾張徳川家の家臣として木曽谷代官職、幕府の命により中山道福島宿に設けられた福島関の関守に就任しています。以降、明治維新までこの体制が維持され当地方に大きな影響力を与えました。

興禅寺(木曽町)は木曽家、山村家の菩提寺で永享6年(1434)、木曽信道(木曽家12代)が木曽家の祖とされる木曽義仲の追善供養の為、円覚太華和尚(鎌倉建長寺開山蘭渓道隆5世孫)を招いて創建されました。興禅寺の境内には木曽義仲の供養塔の他、木曽義康、木曽義昌、木曽家歴代の墓碑、山村家歴代の墓碑などが建立されています。

【 寺  号 】 興禅寺
【 所在地 】 長野県木曽郡木曽町福島門前
【 創建年 】 永享6年(1434)
【 開  山 】 円覚太華和尚(鎌倉建長寺開山蘭渓道隆5世孫)
【 開  基 】 木曽信道(木曽家12代)
【 山  号 】 萬松山
【 宗  派 】 臨済宗妙心寺派
【 本  尊 】 釈迦牟尼佛
【 備  考 】 歴代山村家の墓碑
歴代木曽家の墓碑
木曽義仲の供養塔
長野県大名菩提寺
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