真田信綱

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>信綱寺(長野県・上田市真田町)
【 菩提者 】 真田信綱は天文6年(1537)、武田信玄の重臣真田幸隆と河原隆正の妹(又は飯富虎昌の娘)との長男として生まれました。当時の真田家は海野平の合戦で武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍に破れ没落し上州(現在の群馬県)に逃れていましたが武田信玄に仕え功を挙げた事で真田庄の領主へ復権しています。武田信玄からの信任が篤く、元服の際、信玄の「信」の字を賜り幼名源太から信綱に改称、天文20年(1551)に初陣を果すと、次第に猛将として名を馳せるようになります。永禄4年(1561)の川中島の戦いや岩櫃城攻略戦、永禄11年(1568)の駿河侵攻、永禄12年(1569)の韮山城攻略戦、三増峠の戦いなどに従軍し武田二十四将の一人に数えられました。元亀3年(1572)の信玄の西上作戦では先鋒を務め、徳川家康との三方ヶ原の戦いでも勝利に大きく貢献しています。信玄が死去すると跡を継いだ武田勝頼に従い、その後も各地に転戦し、天正2年(1574)、幸隆が死去した事で真田家宗家を次ぎましたが、同年、長篠の戦いで弟である昌輝と共に討死、享年39歳、戒名「信綱寺殿天室道也大禅定門」、信綱の首は陣羽織に包まれて家臣である北沢最蔵と白川勘解由がが真田庄へ持ち帰られ、縁のある信綱寺(上田市真田町)に埋葬されました。2人は殉死、北沢家は300石、白川家は200石が与えられ真田家宗家は3男真田昌幸(当時は武藤家の養子となり武藤喜兵衛)が継ぎました。正室は高梨政頼の娘(於北様)とされ娘は真田昌幸の長男真田信之の側室となり信吉をもうけたとされます(ただし、一般的に信吉は信之と正室である小松姫の長子とされます)。信綱寺は天文17年(1548)、信綱が大光智照禅師を招いて中興開山した寺院でその際、寺号を好雪斉大柏寺から大柏山打越寺に改称していましたが、信綱が葬られる事になり戒名に因み現在の寺号に改められています。境内には信綱夫妻と弟の昌輝の墓碑が設けられ上田市指定史跡に指定されています。

【 寺  号 】 信綱寺
【 所在地 】 長野県上田市真田町長
【 創建年 】 室町時代
【 開  山 】
【中興 開基】 横尾采女守
【 山  号 】 大柏山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 釈迦如来
【 備  考 】 真田信綱の墓(信綱・信綱夫人・昌輝の墓)−上田市指定史跡−指定日:昭和47年
血染陣羽織(信綱を首を包んで当地まで運んだと伝わる)
昌幸・信之の古文書
長野県大名菩提寺
真田信之松代藩主真田家小松姫真田信重真田信政高島藩主諏訪家上田藩仙石家仙石家上田藩松平家寒松院真田信綱真田幸隆・昌幸塩田北条家内藤家高遠藩主保科家・諏訪御料人飯山藩主堀家・佐久間家飯山藩主松平家・本多家泉家・小島弥太郎小笠原家仙石秀久・内藤家武田信玄龍岡藩主松平家・依田信蕃知久家望月家武田信玄福島正則木曽家・山村家木曽義仲大井信定滋野家吉良義周石川数正石川数正石川数正伴野家大井家木曽家木曽家・山村家仁科家日根野高吉
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