霊松寺(仁科家:菩提寺)

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【 菩提者 】 仁科家は古代の氏族である安曇氏の一族が仁科御厨に配され、地名に因み仁科氏を称したのが始まりとされます。源平の合戦の頃は概ね源氏方として行動したようで、一族と見られる仁科の名が度々古文書に散見されています。鎌倉時代には後鳥羽上皇と関係を持った仁科盛遠が幕府から危険視され所領が取り上げられ、これが1つの要因となり「承久の乱」が発生したとも云われています。承久の乱が平定されると仁科家は没落しましたが、鎌倉幕府が滅びると次第に領土を広げたと考えられ、応永7年(1400)の「大塔合戦」では仁科家が盟主の1人として担ぎ上げられ、信濃国守護職小笠原家と戦い見事勝利を収めています。しかし、幕府の協力を得た小笠原氏は再び守護職に復権した為、仁科氏の主流派は排斥され、一族である関盛忠が仁科家の名跡をを継いでいます。戦国時代に入ると国人領主としての地位を確立し、安曇郡・筑摩郡を領するまで勢力を広げましたが、武田家の信濃侵攻により信濃国の国人領主達が次々と討ち滅ぼされると、武田家に従属する事になります。その後の経緯は不詳ですが、仁科家は武田信玄の5男盛信が名跡を継いでいる事から、仁科家宗家の血筋は途絶えています。名跡を継いだ盛信も織田家の信濃侵攻により高遠城長野県伊那市高遠町)で壮烈な最期を遂げています。

霊松寺長野県大町市)は応永11年(1404)に仁科盛忠によって中興された仁科家累代の菩提寺です。霊松寺は仁科家が滅びると衰微しましたが、江戸時代に入ると松本藩長野県松本市:本城−松本城)の藩主小笠原貞慶により庇護され、徳川将軍家からは寺領10石が安堵されています。明治時代初頭に神仏分離令が発令されると松本藩は強力に推し進めた為、領内の寺院が次々に廃寺に追い込まれ、霊松寺も廃寺の危機にさらされましたが、安達達淳和尚が各方面に協力を求め霊松寺の存続に尽力した為、廃寺を免れています。仁科家は長く安曇野地方を領していた事から文化的にも大きく貢献し、周辺には仁科家に縁の深い、仁科神明宮(長野県大町市・本殿:国宝)、若一王子神社(長野県大町市)、穂高神社長野県安曇野市)などが点在しています。

【 所在地 】 長野県大町市山田町
【 創建年 】 応永11年(1404)
【 開  山 】 開山−不詳
中興開山−実峰良秀(曹洞宗総本山総持寺2世の峨山韶碩の高弟)
【 開  基 】 開基−藤原保近
中興開基−仁科盛忠
【 山  号 】 功徳林大洞山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 釈迦如来
【 備  考 】
長野県大名菩提寺
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