武田信玄:伝:埋葬地

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>龍雲寺(長野県・佐久市)
【 菩提者 】 天文年間末期(1551〜1555年)、佐久地方を掌握した武田信玄(当時は晴信)が龍雲寺長野県佐久市)を訪れた際、当時の住職桂空と意見が合わず追放、代りに信玄が幼少の頃から帰依していた北高禅師を、越後の雲洞庵(新潟県南魚沼市)から招き弘治2年(1556)に龍雲寺を中興しています。元亀3年(1572)、室町幕府15代将軍足利義昭が発した織田信長追討令に呼応し西上作戦が計画され、それに先立ち龍雲寺では同年の4月から7月にかけて戦勝祈願の千人法幢が小宮山丹後守昌友を奉行として執行しています。同年10月、武田軍の進軍が始まり、12月中頃までには徳川方の守る遠江国北東部の諸城は落城し、12月22日、徳川軍本隊との三方ヶ原の戦いで勝利し、翌年には三河国の侵攻が始まっています。ところが元亀4年(1573)4月、突如として武田軍は撤退を開始、伝承によると体調を崩した武田信玄は長篠城(愛知県新城市)で養生しましたが一向に回復の兆しが見えず本国で本格的な治療を施す為に帰途の際、信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村・信玄塚)で没したと伝えられています。龍雲寺に伝わる話しによると北高禅師が信玄の遺骨と短刀、袈裟環を持ち帰り境内に埋葬したとの伝承が長く伝わっており、昭和6年(1931)5月29日、たまたま境内の工事をしていたところ、地中から茶釜が見つかり、その中から伝承された遺品が発見されました。袈裟環には銘には「大壇越信玄公、干時天正元年酉年四月十二日於駒場卒、戦時為舎利納○北高和尚頂礼百拝」と記され、事実だとすれば少なくとも一度は龍雲寺の境内に埋葬された事になります。ただし、一時の埋葬地にしても火葬地にしても候補地が多数存在し、何れも伝承地という事で明確な証拠が示されおらず、龍雲寺の遺品についても今だに真贋論争の決着を見ず鑑定結果で史跡指定を見送った国に対して寺側が提訴する騒ぎが起こっています。信玄は遺言で自らの死を3年間秘匿するように告げたとも云われ、人知れず所で荼毘に付され、3年間人知れず所に埋葬されていたと思われます。天正3年(1575年)4月12日、恵林寺(山梨県甲州市塩山小屋敷)で葬儀が行われ天正4年(1576)4月16日に改めて本葬が行われています。正式的には恵林寺が武田信玄の菩提寺ということになります。

【 寺  号 】 龍雲寺
【 所在地 】 長野県佐久市岩村田
【 創建年 】 正和元年(1312)
【 開  山 】 浄学天仲
【 開  基 】 大井玄慶
【 山  号 】 太田山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 十一面観音
【 備  考 】 遺骨(伝:信玄遺骨)、短刀(島田助宗作)、袈裟環
長野県大名菩提寺
真田信之松代藩主真田家小松姫真田信重真田信政高島藩主諏訪家上田藩仙石家仙石家上田藩松平家寒松院真田信綱真田幸隆・昌幸塩田北条家内藤家高遠藩主保科家・諏訪御料人飯山藩主堀家・佐久間家飯山藩主松平家・本多家泉家・小島弥太郎小笠原家仙石秀久・内藤家武田信玄龍岡藩主松平家・依田信蕃知久家望月家武田信玄福島正則木曽家・山村家木曽義仲大井信定滋野家吉良義周石川数正石川数正石川数正伴野家大井家木曽家木曽家・山村家仁科家日根野高吉
※ 文章や画像のコピーは御遠慮ください。御理解の程よろしくお願いします。