伴野家

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>洞源山貞祥寺(長野県・佐久市)
【 菩提者 】 貞祥寺を菩提寺とする伴野家は小笠原長清の6男時長が佐久郡伴野荘の地頭として就任し、地名に因み伴野氏を称したのが始まりとされます。伴野家は小笠原家の惣領職を担うなど繁栄していましたが弘安8年(1285)の「霜月騒動」で政争に破れ主要な一族が悉く討ち取られ、領地が没収された為、没落を余儀なくされます(敗北した安達泰盛に与した伴野彦二郎盛時が自害に追い込まれています)。元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡すると、伴野家一族である伴野弥三郎長房は旧領復帰を画策し、足利尊氏に接近し一定の地位を確立し、伴野荘の地頭職に復権しています。南北朝の動乱では足利尊氏方である北朝に属し正平8年(1353)の京都での戦いで長房は討死しています。その後も足利将軍家に従い奉公衆に加えられ、領内では伴野長朝が前山城を築城しています。15世紀中頃に入ると岩村田城の城主大井氏との対立が激しくなり、文明11年(1479)には大規模な戦闘が行われ、勝利を収めた伴野光利は伴野荘の大部分を掌握し、さらに、一族である野沢伴野氏を破り一族の統一も果たしています。戦国時代に当主となった伴野貞祥は大永元年(1521)に祖父である光利と父親である光信の追善供養の為に貞祥寺を開き、伴野家の菩提寺として境内を整備しています。武田信玄が信濃国に侵攻すると武田家に積極的従い居城である前山城が武田家の事実上戦略的拠点として利用され、これにより武田家が佐久郡を比較的容易に平定する要因の1つとなっています。天正10年(1582)、武田勝頼が自刃して武田家が滅びると、小田原北条氏に属しましたが、徳川家康に属した依田信蕃に攻められ前山城は落城、当時の当主伴野信守は自刃して伴野家は没落しています。

貞祥寺は大永元年(1521)に伴野貞祥によって創建された伴野家の菩提寺です。伴野家が没落すると衰微しましたが、江戸時代に入ると、小諸藩長野県小諸市:本城−小諸城)の藩主から庇護され、慶安2年(1649)には仙石秀久から寺領100貫文が安堵され、徳川将軍家からは寺領15石が安堵されています。貞祥寺は当地域を代表する名刹で、境内には現在でも七堂伽藍が整備され、中でも惣門、山門(茅葺、楼門)、三重塔(三重塔婆)の3棟が価値が高く長野県の県宝に指定されています。貞祥寺境内には伴野貞祥の墓と伝わる墓碑が建立されています。

伴野家の居城である前山城は室町時代の文明年間(1469〜1487年)頃に伴野光利が築いたと推定されています。伴野家はそれまで伴野館を本拠としていましたが、伴野館は鎌倉時代に見られた武家屋敷のように単郭の周囲に堀と土塁、板塀を回した程度の規模だった為、大井氏との対立や、武田家の佐久郡侵攻に備え、より防衛力に富む山城が必要とされました。前山城は中沢川を天然の堀と見立て、北東に延びた尾根沿いに多数の郭を設け、山頂付近に本丸、その南側に二の丸、南西方向に三の丸として、堀切や土塁、空堀などが巧みに配されていました。伴野家が武田家に屈すると、前山城は武田家の信濃進出への拠点の1つとして拡張、整備が行われ重要視された事からも、貞祥寺が武田家から庇護を受けたのもうなずけます。貞祥寺は前山城から見るとやや離れた南東方向に位置し、城下町からは外れた所に境内を構えた印象を受けます。時代背景は判りませんが、貞祥寺は奈良時代以前に創建されたと伝わる真楽寺(御代田町)の甲賀三郎伝説の舞台にもなっている事から、前山城が築かれる以前に、前身寺院が現在地に存在していたかも知れません。

【 寺  号 】 貞祥寺
【 所在地 】 長野県佐久市前山
【 創建年 】 大永元年(1521)
【 開  山 】 節香徳忠禅師(貞祥の叔父:文明7年生れ、仲孚正異に師事、諡号:円明禅師、永禄13年死没)
【 開  基 】 伴野貞祥
【 山  号 】 洞源山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 釈迦如来
【 備  考 】 伴野貞祥の墓
長野県大名菩提寺
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