石川数正

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>兎川寺(長野県・松本市)
【 菩提者 】 石川数正は当初、徳川家康の側近中の側近とされ、外交官的な役割を持ち、今川家との人質交渉や、織田家との外交交渉行い、大きな功績を残しています。永禄6年(1563)の三河一向一揆では宗教上の理由などから徳川家臣団が分裂しましたが、数正は信仰していた一向宗から浄土宗に改宗し一揆鎮圧に尽力し家康に対して忠義を尽くしています。その後、徳川家の家老に就任し、家康の嫡男信康の後見人、西三河の旗頭などを歴任し天正7年(1579)には岡崎城(愛知県岡崎市康生町)の城主となっています。石川数正は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が台頭すると、秀吉と徳川家の間の外交の任を担い、この間に心変わりしたのか天正13年(1585)に徳川家を出奔し豊臣方に鞍替えしています。徳川家を出奔した理由は判りませんが、戦国時代に主家を変える事は珍しくもない行為で、実際、数正は8万石という外様の家臣としては破格の待遇を受けています。逆に、徳川家は大きな戦力低下と共に、情報の流出を恐れ、軍制などの改革が行われています。天正18年(1590)の小田原の役では豊臣方として従軍し、その功により松本城10万石が与えられています。松本の地は古くから信濃国府や信濃守護所が置かれた政治的な要衝で、千国街道や、中山道三州街道などを押える上でも戦略的にも重要視されていた為、数正が秀吉に信頼されていた事が窺えます。石川数正は松本城松本市)を大改修し、城下町や領内の整備にも尽力しています。文禄2年(1593)に死去、享年61歳。

兎川寺は飛鳥時代に聖徳太子が開基となり開いたと伝わる、松本周辺では有数の古寺で、往時は境内に24坊の支院を擁する大寺として名を馳せました。中世は信濃国守護の小笠原家の祈願所として庇護されていましたが、天文19年(1550)に武田信玄の侵攻により小笠原家の居城である林城が落城、兎川寺はその兵火により焼失したと推定されています。天正18年(1590)に石川数正が松本城の城主になると、兎川寺は数正の庇護になったとされ、境内には石川数正夫婦の供養塔が建立されています。

【 寺  号 】 兎川寺
【 所在地 】 長野県松本市里山辺
【 創建年 】 伝:飛鳥時代
【 開  山 】
【 開  基 】 伝:聖徳太子
【 山  号 】 恵日高照山
【 宗  派 】 真言宗智山派
【 本  尊 】 千手観音
【 備  考 】 石川数正夫婦の供養塔(五輪塔)
長野県大名菩提寺
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