木曽家・山村家

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>長福寺(長野県・木曽町)
【 菩提者 】 木曽氏は木曽源氏の頭領として一時京都を占拠し朝日将軍の異名があった木曽義仲を祖と自称する氏族です。木曽義仲が源範頼、源義経軍に敗れ自刃すると没落しましたが、一族の一部が信濃仁科領、上野国沼田領と流れ、地名に因み沼田氏を名乗るようになります。沼田家村は足利尊氏に与し、鎌倉幕府倒幕や、南北朝の動乱で功を挙げ、旧領である木曽谷北半分を与えられ復権を果たしています。さらに、後裔は木曽氏に復し、木曽谷全領を領するようになり、小笠原家、村上家、諏訪家と共に信濃四大将に数えられました。戦国時代に入る戸と武田信玄の信濃侵攻により上記3家は没落し、天文24年(1555)、木曽義康は信玄に従属し、嫡男義昌の正室として信玄の3女を迎えています(小笠原家と諏訪家は宗家が滅亡したものの、一族の一部が江戸時代に入り大名家として復権しています)。しかし、天正3年(1575)、長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると、義昌は武田家を見限り、織田家に転じました。これにより、武田家の戦力が大きく削がれる事となり、武田家滅亡の要因の1つとなっています。天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が自刃すると、松本城長野県松本市)に入り大きく盤図を広げますが、戦線を維持出来ず、結局、徳川家康に従っています。天正18年(1590)に徳川家康が関東に移封になると、下総国海上郡阿知戸領1万石に配され、その後、改易となっています。

山村家は、木曽家と血縁関係を結ぶ事で一族扱いを受け、家老などの要職に歴任しました。木曽氏が改易になると旧領である木曽谷に戻り、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、中山道を西上する徳川本隊の道案内をした事から木曽谷の代官として復権しました。

長福寺は室町時代に木曽義仲から13代後裔とされる木曽豊方により中興された木曽家縁の寺院で歴代木曽氏当主が篤く庇護していました。長福寺は天正18年(1590)に木曽氏が移封になると、その後に木曽谷の代官となった山村氏の庇護となり、堂宇の造営や寺領の安堵が行われました。長福寺の境内には木曽家歴代の墓や、山村家歴代の墓、武田信玄の供養塔が建立されています。長福寺は興禅寺定勝寺と共に木曽三大寺と呼ばれています。

【 寺  号 】 長福寺
【 所在地 】 長野県木曽郡木曽町福島門前
【 創建年 】 開山年−大宝2年(702)
中興開山年−永享2年(1430)
【 開  山 】 中興開山−竺陰禅師(鎌倉浄智寺の仏眼禅師の高弟)
【 開  基 】 中興開基−木曽豊方
【 山  号 】 龍源山
【 宗  派 】 臨済宗妙心寺派
【 本  尊 】
【 備  考 】 歴代山村家の墓碑
歴代木曽家の墓碑
武田信玄の供養塔
長野県大名菩提寺
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