松代真田家

  長野県:歴史・観光・見所(ホーム)>長国寺(長野県・長野市松代町)
【 菩提者 】 真田信之は名将と讃えられた真田昌幸の嫡男として生まれ、幼少期は武田家への人質として過しました。武田家が滅ぶと実家に戻り、その後は昌幸と共に各地に従軍し功を挙げ、特に天正13年(1585)の徳川軍との上田合戦では大功を挙げ真田家勝利に大きく貢献します。徳川家との和睦後は徳川家康の養女である小松姫(本多忠勝の娘)を正室として迎えた事で昌幸は徳川家との関係を深めます。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは昌幸、幸村が西軍に与する中、信之は東軍に与し、徳川秀忠に従軍し上田城攻めにも参加し戸石城を接収する功績を挙げています。戦後、真田宗家は改易となりますが、信之はその遺領を引き継ぐ形で9万5千石が安堵され上田藩を立藩、ただし、上田城は秀忠軍が攻めあぐねた名城だった為は廃城となり藩庁は信之の居城である沼田城(群馬県沼田市)とされました。元和8年(1622)、松代藩(藩庁:松代城)13万石で移封となり初代松代藩主に就任、明暦元年(1656)に次男真田信政に家督を譲って隠居します。信政は2年後に死去した為、3代藩主を巡る御家騒動が勃発し、結果、幼少ながらも信政の嫡男幸道が藩主に就任し、信之の長男信吉の跡を継いだ真田信利が沼田領3万石が分知され沼田藩が立藩、松代藩は10万石になりました。3代幸道は武勇に優れた人物で関口流柔術や神道流剣術などを極めたとされ「松代侯詩集」などを編纂、しかし、幕府から多大な普請役を仰せ付かされ一気に財政が悪化します。幸道には嫡子がいなかった為、兄である信就の7男信弘を養嗣子として迎え、信弘が4代藩主に就任しています。信弘は藩政改革に積極的に取り組み、当時1万両あったとされる借財を完済し、晩年には逆に3万両の貯蓄をしたとされます。6代藩主・真田幸弘は4人の男子に恵まれたものの、全員早世した為、彦根藩主・井伊直幸の9男幸専を養子として迎え7代藩主に就任させています。幸専は当初から子供に恵まれなかった事から松平定信の次男(年齢的には長男)・幸貫を養嗣子として迎え8代藩主に就任させています。松平定信は8代将軍・徳川吉宗の孫で白河藩主、幕政では老中などの要職を歴任し寛政の改革を成し遂げた人物だった為、真田家も徳川家に近い譜代大名と同格に列しました。幸貫も幕政に参加し老中などの要職を歴任、天保の改革などに大きく係わり、藩政でも佐久間象山などを登用し財政再建や人材育成などに尽力した事で名君とされます。10代藩主真田幸民は戊辰戦争の際、比較的早い段階で新政府軍に与し北越戦争、会津戦争など各地に従軍し、その功で賞典禄3万石を加増され明治維新を迎えています。長国寺(長野市松代町)は真田家歴代の菩提寺で真田家墓所は国指定史跡に指定されています。

【 寺  号 】 長国寺
【 所在地 】 長野県長野市松代町
【 創建年 】 天文16年(1547)
【 開  山 】 伝為晃運
【 開  基 】 真田幸隆
【 山  号 】 真田山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 阿弥陀如来
【 備  考 】 真田信之霊屋(宝殿、表門)−国指定重要文化財−指定日:昭和51年
松代藩主真田家墓所−国指定史跡−指定日:昭和62年
真田信弘霊屋および表門 −長野県指定文化財−指定日:昭和41年
長国寺開山堂 (旧真田幸道霊屋)−長野県指定文化財−指定日:昭和41年
長野県大名菩提寺
真田信之松代藩主真田家小松姫真田信重真田信政高島藩主諏訪家上田藩仙石家仙石家上田藩松平家寒松院真田信綱真田幸隆・昌幸塩田北条家内藤家高遠藩主保科家・諏訪御料人飯山藩主堀家・佐久間家飯山藩主松平家・本多家泉家・小島弥太郎小笠原家仙石秀久・内藤家武田信玄龍岡藩主松平家・依田信蕃知久家望月家武田信玄福島正則木曽家・山村家木曽義仲大井信定滋野家吉良義周石川数正石川数正石川数正伴野家大井家木曽家木曽家・山村家仁科家日根野高吉
※ 文章や画像のコピーは御遠慮ください。御理解の程よろしくお願いします。