塩の道資料館(糸魚川市山口)

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概要・歴史・観光・見所

塩の道資料館(山口宿)概要: 建物の詳細は不詳、近くの集落から農家建築を移築し、内部に千国街道(塩の道)関係の資料を展示する資料館として整備されたようです。外観は木造平屋建、入母屋、茅葺、平入、外壁は下見板張縦押縁押え、建築年代が判りませんが、新潟県で見られる伝統的な中門造りの農家建築とは明らかに異なり(外壁の仕上げや開口部に取り付け方など)、比較的に時代が下がった新しい建物と思われます。

内部は3層構造で、低い天井の2階部分と屋根小屋部分があり、往時は養蚕が行われていたようで、1階の囲炉裏から出た熱の籠った煙が上層階に行き渡るような工夫が見られます。

内部に展示されているのは千国街道で歩荷と呼ばれる、荷物を背負って目的地まで運ぶ、運送業を生業する人の運搬用具や携行用具、衣類などでその内の706点が「越後姫川谷のボッカ運搬用具コレクション」として平成16年(2004)に国指定重要有形民俗文化財に指定されています。

塩の道資料館が建てられている根知地域(山口宿)は千国街道の大網峠の麓にあたる事から古くから戦略的な要衝として位置づけられ、戦国時代には越後の領主である上杉謙信によって根知城(新潟県指定史跡)が築かれました。根知城は国境を守る最大の拠点として大規模で要害堅固な山城として縄張りされ、村上義清が城主として配されました。

村上義清は元々は信州の国人領主で、武田信玄に2度勝利するなど猛将として知られていましたが、村上方の武将が次々と調略された事で戦線を維持出来なくなり、上杉家を頼り越後に逃れています。村上義清は根知城で病死したとされ、城下に境内を構えた安福寺の境内に葬られたと伝えられています。

その後も、春日山城主の有力家臣が根知城の城代として配されていましたが、慶長6年(1601)に廃城となり、当地を千国街道の宿駅的な機能をもった集落として整備されています。山口関所(糸魚川市指定史跡)は千国街道の人や荷物の出入りを管理する施設で、記録が明確なものとしては天正2年(1574)には既に存在していた事になります。

千国街道は日本海側の糸魚川と、信州の松本までを結ぶ街道で、特に日本海の海産物や塩を内陸部まで運ぶ重要な役割を持ちました。糸魚川市の中山峠(大野地区〜根知地区)の約1.4キロと大野地区約3.3キロにはの街道沿いには石仏群や日向茶屋跡、歩荷宿跡、切通などの遺構が残され、当時の千国街道の景観が維持されている大変貴重な存在として平成14年(2002)に国指定史跡に指定されています。

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塩の道資料館:写真

塩の道資料館(千国街道)
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