三州街道(伊那街道)

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三州街道(伊那街道・中馬街道・飯田街道)の街道と宿場町の動画の再生リスト

三州街道(伊那街道)概要: 三州街道の経路は中山道の塩尻宿(長野県塩尻市)から分岐して松島宿(長野県松島町)で、諏訪道と合流、伊那部宿(長野県伊那市)で中山道の宮ノ越宿とを結ぶ権兵衛街道と合流、飯田城下(長野県飯田市)で中山道の妻籠宿とを結ぶ大平街道と合流、飯田城下からは四方に街道が延び交通の要衝、経済、行政、軍事の中心として発展、その後、駒場宿(長野県阿智村)で中山道の落合宿とを結ぶ飯田道(旧官道)と合流、足助宿(愛知県豊田市)などを経て岡崎城下(愛知県岡崎市)に至ります。

江戸時代に入ると飯田藩の藩主小笠原秀政が重要視し慶長13年(1608)には春日淡路守(京極家から小笠原家の家臣に転じた)に命じて宿場町である市田宿と大島宿の条規を定め、要衝である松島宿には慶長17(1612)に木下陣屋を設けて二木政実が配されています(春日淡路守は春日街道の開削にも尽力しています)。

三州街道は信州の伊奈地方を縦断することから「伊奈街道」、又、太平洋側の海産物や塩を信州の内陸部まで運んだ事から「塩の道」、中馬と呼ばれる駄賃馬稼が盛んだったことから「中馬の道」、「中馬街道」などと呼ばれました。

中馬というのは、農家などの民間の馬を目的地まで形式的に借り上げた上で運送する方法で、料金が安く、早く、手間が簡単という三拍子が揃っていた事から急速に発展し大きな流通の流れとなりました。

中山道など正式な街道だと、宿場毎に問屋場で馬を替える伝馬方式に限定された為、安全で正確だったものの、中馬形式とは逆でいちいち面倒な工程が付随され料金も割高でした。

参勤交代は飯田藩のみで宮田宿に本陣を設けて宿泊所として利用する程度で、その他は太平洋側で取れた塩や海産物などの物資の輸送路や、江戸時代以降民衆に広がった行楽により伊勢神宮や善光寺、諏訪大社詣でなどの参拝者が数多く利用しました。

主要街道に存在する厳しい関所などがなかった為、一般庶民でも比較的気楽に利用出来、宿場制度を超えて当事者同士が直接契約することにより手間や運賃が安く物資の運搬が出来る中馬が発達しました。明治時代以降は主要街道から外れた為、都市化された以外の宿場は比較的古い町並みが残されていて足助宿は重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

三州街道(伊那街道)のルート
塩尻宿−小野宿−宮木宿−松島宿−伊那部宿−宮田宿−赤須上穂宿−飯島宿−
片桐宿−大島宿−市田宿−飯田宿−駒場宿−浪合宿−平谷宿−根羽宿−
武節(稲武)宿−足助宿−九久平宿−岡崎宿

三州街道の宿場町:概要

【 塩尻宿 】−塩尻宿(長野県塩尻市)は三州街道(伊奈街道)と中山道との分岐点として発展した町で、さらに、松本城下とを結ぶ脇道とも交差し交通の要衝として物資の集積場となりました。明治時代以降も周辺の中心的な役割を得た為、近代化が進み、さらに火事などもあり殆ど古い町並みは残されていません。唯一類焼を無脱がれた小野家住宅(旅籠)は国指定重要文化財に指定されています。

【 小野宿 】−小野宿(長野県辰野町)は元々中山道の宿場町でしたが難所が多かった事から塩尻宿が開宿し経路変更がなされました。三州街道(伊奈街道)沿いには古い古民家が軒を連ね往時の雰囲気を維持しています。特に宿場の問屋と名主を務めた小野家住宅は辰野町指定文化財に指定されています。又、小野宿の郊外には小野神社矢彦神社が略、同規模で隣り合うように鎮座しています。元々は同じ神社だったようですが、天正18年(1590)に豊臣秀吉による天下統一が果たされ諸大名の大規模な配置換えが行われた結果、小野宿が石川数正の松本領と、毛利秀頼の飯田領の境界線となり、信濃二之宮という格式の高い小野南北大明神の帰属を巡り騒動となり、天正19年(1591)に秀吉の采配により境内が中央で分断され、松本領には小野神社、飯田領には矢彦神社として信仰されるようになりました(小野神社と矢彦神社の社殿の多くは長野県の県宝に指定されています)。現在、両神社周辺の住所は塩尻市ですが、矢彦神社の境内だけが辰野町の飛び地で当時の名残となっています。よって、現在、小野宿と呼ばれている地域は矢彦神社が鎮守となっています。

【 宮木宿 】−宮木宿(長野県辰野町)は道路の拡幅などにより、殆ど古い町並みが見られません。屋号で「たかさごや」の看板を掲げる古民家は木造2階建て、切妻、桟瓦葺、平入、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ、外壁両端に袖壁付き、間口が広く、軒が低い建物です。

【 松島宿 】−松島宿(長野県箕輪町)は三州街道(伊奈街道)と諏訪道(岡谷街道)、木曽への脇道との分岐点だった交通の要衝で、幕末には水戸天狗党が中山道の下諏訪宿から岡谷街道を経て松島宿の追分から三州街道に入り上洛を目指しました。松島宿には松島神社南宮神社明音寺嶺頭院などの社寺が点在しています。

【 伊那部宿 】−伊那部宿(長野県伊那市)は飯田城下と塩尻宿の中間にあたり、古くから伊那郡の中心地(中世は春日城の城下町)として発展しました。又、三州街道(伊奈街道)と中山道木曽路へと結ぶ権兵衛街道(宮ノ越宿〜姥神峠〜権兵衛峠〜伊那部宿:古畑権兵衛が私費で開削)との分岐点でもあり交通の要衝でした。明治時代に入ると麓に近代交通が整備された事で宿場町としては衰微し、落ち着いた町並みが残される結果となりました。中でも井澤家住宅は往時の豪農建築の遺構として貴重な事から伊那市指定文化財に指定されています。

【 宮田宿 】−宮田宿(長野県宮田村)の地名は平安時代に編纂された「延喜式」や「倭名類聚抄」にも散見され、古代の官道として整備された東山道の駅である「宮田駅」に比定されています。江戸時代に入り三州街道(伊奈街道)が整備されると飯田藩の参勤交代の際の宿泊地となり、宮田宿本陣は宿所として利用されました。宮田宿本陣は移築されていますが現存し長野県の県宝に指定されています。町並みも比較的多くの古民家が点在し往時の繁栄が窺えます。

【 赤須上穂宿 】−赤須上穂宿(長野県駒ヶ根市)には安楽寺(天文2年:1533年還夢上人により創建、三門は楼門形式の古建築物で駒ヶ根市指定文化財)や上穂沢川橋礎石(旧伊那街道上穂沢川橋の橋脚に用いられた礎石、駒ヶ根市指定文化財)などの史跡があります。明治の実業家として知られた田中平八の出身地でもあり、実家の藤島家は赤須上穂宿の豪商で幕末頃に衰微したそうです。郊外に境内を構える光前寺(駒ヶ根市)は平安時代中期の貞観2年(860)に開かれた古刹で、天台宗信濃五山に数えられるなど信仰を広め、戦国時代には武田氏や羽柴氏(後の豊臣氏)、江戸時代には徳川将軍家から庇護を受けました。又、早太郎伝説の舞台でもあり光前寺の境内には早太郎の墓碑や像が建立されています。光前寺は南信州屈指の境内を有し、室町時代に建てられた弁天堂が国指定重要文化財、江戸時代後期に建てられた光前寺三重塔は長野県の県宝に指定されています。

【 飯島宿 】−飯島(長野県飯島町)は中世以来の領主、飯島氏の居城飯島城の城下町として発展した町です。飯島氏は戦国時代に入ると武田家に従い、織田家の信州・甲斐侵攻により武田家が滅びると飯島城は落城し、大名家からは没落しています。江戸時代に入り三州街道(伊奈街道)が開削されると飯島宿が整備されました。又、周辺は幕府の直領である天領となり飯島宿には行政施設である飯島陣屋が設けられ当地域の行政の中心となり発展しました。

【 片桐宿 】−片桐(長野県松川町)は古代の官道である東山道の駅である堅錐駅が設置されたと推定される場所の1つです。中世に入ると片桐氏が支配しますが上記の飯島氏と同様に戦国時代に武田家に従った為、織田家の侵攻により武田家と命運を共にして大名家からは没落します。江戸時代当初は天領として片桐代官所が設けられ行政の中心となりましたが延宝5年(1677)に飯島陣屋が新設されると代官所も排されています。

【 大島宿 】−大島(長野県松川町)は片桐氏の一族である大島氏の居城大島城の城下町として発展しました。戦国時代の大島氏の挙動は不詳ですが、大島城は武田家の家臣秋山信友の持城となり大改修されている事から、武田信玄の信濃侵攻により没落したと思われます。武田家が滅亡後は飯田城に配された京極高知の支配下に入り、三州街道(伊奈街道)が開削されると改めて大島(城下だった場所は元大島)に宿場町が整備されました。三州街道沿いには比較的古民家が多く見られます。

【 市田宿 】−市田宿(長野県高森町)は戦国時代に武田信玄の街道開削に伴い整備された三州街道の宿場町です。江戸時代後期になると白河藩(福島県白河市)に属し市田陣屋(1万3千8百7十4石)が設けられ領内の行政の中心として発展しました。瑠璃寺は平安時代の天永3年(1112)に観誉僧都により開山された古刹で源頼朝、上杉謙信、武田信玄などから庇護された事で寺運が隆盛しました。境内の桜の古木は頼朝が寄進したと伝えられ、本尊の薬師瑠璃光如来三尊佛は国指定重要文化財、聖観世音菩薩は長野県の県宝、大島山獅子舞は長野県の民俗無形文化財に指定されています。

【 飯田宿 】飯田宿(長野県飯田市)は三州街道の宿場町であると同時に飯田藩の藩庁と藩主居館が設けられた飯田城の城下町として発展した町です。中山道(木曽路)妻籠宿と飯田城下を結んだ大平街道との分岐点でもあり多くの物資の集積場にもなりました。明治時代以降も周辺地域の中心として発展した事で近代化しましたが、武家屋敷が現存するなど城下町の名残も一部で見られます。

【 駒場宿 】−駒場宿(長野県阿智村)は三州街道(伊奈街道)と中山道の落合宿を結ぶ飯田道(清内路街道)と遠州街道(秋葉街道)とを結ぶ三河道の分岐点として発展した町です。交通の要衝として重要視された為、中世は駒場城が築かれていました。駒場は武田信玄が火葬されたと伝わる所で長岳寺には信玄の火葬塚が建立されています。

【 浪合宿 】−浪合宿(長野県阿智村)は尹良親王(後醍醐天皇の皇孫)縁の地で、親王が応永31年(1424)に諏訪から足助に向かう途中、浪合の地で野武士とされる飯田太郎、駒場小次郎等と交戦となり敗北、大河原の民家で自刃したと伝えられています。近くには宮内庁管轄の尹良親王御陵墓の他、親王を祭神とする浪合神社(創建・延宝年間:1673〜1681年)が鎮座しています。戦国時代に入ると武田信玄が街道を整備した際に宿場町として整備されました。元和7年(1621)に浪合関所が設置され、享保6年(1721)に洪水により大破し現在地に移されています。

【 平谷宿 】−平谷宿(長野県平谷村)は三州街道と上村街道、平谷街道が分岐する交通の要衝として発展した町です。美濃国(岐阜県)と信濃国(長野県)の国境に隣接する為に重要視され文禄2年(1593)に飯田城の城主京極高知により宿場町として整備され、その後、滝之沢御関所が設けら人や荷物の出入りの管理が行われました。江戸時代に入り経済交流が盛んになると中馬の中継地として栄えました。現在は衰微しましたが三州街道沿いには古民家が軒を連ね往時の雰囲気が残されています。

【 根羽宿 】−根羽宿(長野県根羽村)は三州街道と岩村道(根羽宿〜岩村城〜明智陣屋)、新城道(根羽宿〜吉田城)が分岐する交通の要衝でした。中世までは三河国(愛知県)に属していましたが戦国時代に武田信玄が領すると信州国に編入されました。又、武田信玄の終焉の地と伝わる所があり、信玄塚として村人から篤く護られています。

【 武節(稲武)宿 】−武節(稲武)宿(愛知県豊田市)は三州街道と秋葉街道が交差する交通の要地で美濃国(岐阜県)との国境にも近い事から重要視されました。三州街道沿いには古民家も多く宿場町の風情が感じられる町並みが見られます。

【 明川宿 】−明川宿(愛知県豊田市)は武節宿と足助宿の中間に位置し中馬の中継地として栄えました。鎮守である熊野神社の境内には嘉永5年(1852)に建立された足助地区最大規模の農村舞台「明川座」があり異彩を放っています。

【 足助宿 】−足助宿(愛知県豊田市)は三州街道と鳳来寺を結ぶ「ほうらいじ道」との分岐点として発展しました。中世から当地方の中心地で当時は足助氏の居城である足助城の城下町として発展し、江戸時代は旗本本多氏の足助陣屋の陣屋町でもありました。現在も三州街道沿いには当時の古い町並みが残り国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

【 九久平宿 】−九久平宿(愛知県豊田市)は三州街道の宿場町であると同時に舟運の拠点として栄えました。太平洋から陸揚げされた海産物や塩などは舟運船に積み替えられ岡崎から矢作川、渡会から巴川を経て当地で再び陸揚げされ三州街道を利用して信州の内陸部まで運ばれていきました。

【 岡崎宿 】−岡崎宿(愛知県岡崎市)は岡崎藩の藩庁、藩主居館が置かれた岡崎城の城下町として発展した町で、城下は三州街道や東海道などの起点として交通の要衝となっていました。岡崎の地は徳川家康の生誕地だった事から藩主には歴代有力譜代大名が歴任しました。城下には徳川家縁の史跡が点在しています。

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