稲荷山宿(善光寺西街道)

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稲荷山宿(善光寺西街道)
【善光寺西街道】−慶長19年(1614)、中山道の脇往還として開削され、北国西往還や善光寺西街道などと呼ばれました。参勤交代では利用されませんでしたが、関西方面から中山道を利用した場合、善光寺(長野県長野市)への最短距離で結んだ為、特に江戸時代中期以降、善光寺詣でが盛んになると多くの参拝者や信者達が街道を利用しました。明治維新後は大きな近代化が行われなかった為、各宿場町は比較的良好な町並みが残されています。
善光寺西街道の経路・宿場町
洗馬宿
右
郷原宿
右
村井宿
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松本宿
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岡田宿
右
刈谷原宿
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会田宿
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青柳宿
右
麻績宿
右
桑原宿
右
稲荷山宿
右
丹波島宿
【稲荷山宿】稲荷山宿は天正11年(1583)、上杉景勝が武田方の砦跡地に稲荷山城を築城し、その城下町として整備され、その後、慶長19年(1614)に善光寺西街道(北国西街道)が整備されると、その宿場町として改めて町割されています。稲荷山宿を基点にして飯山城下を結ぶ谷街道が伸び、千曲川の舟運の拠点でもあった為、稲荷山宿には多くの物資が集められ、1ヶ月の間に9回市場が立ち経済的に大きく発展しました。特に江戸時代後期から明治時代にかけては養蚕や絹織物などを取り扱う数多くの呉服問屋が軒を連ね、善光寺西街道最大の宿場町、北信濃随一の商都とも言われました。明治33年(1900)、国鉄篠ノ井線が開通した際、本来ならば稲荷山宿の中心部近くに駅舎が設けられるはずでしたが、反対運動により隣村の塩崎村(現在の長野市)に設置、さらに当地域の中心も千曲川の対岸に屋代宿に移った為、稲荷山宿の行政面、交通面の重要性が失われ、昭和初期の昭和恐慌により経済的にも大打撃を受け衰微しました。その後も大きな近代化が行われなかった為に、弘化4年(1847)の善光寺大地震以降に再建された町屋や蔵が数多くの存在し、平成26年(2014)に名称「千曲市稲荷山伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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