八幡神社(長和町和田)

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概要・歴史・観光・見所
八幡神社(長和町・和田宿)概要: 案内板によると「 祭神は、応神天皇である。かつて和田城主大井氏の居館の鬼門除けに作られたとの伝承がある。白木造一間社流造の本殿は、間口1.7メートル、奥行き1.8メートルの大きさで、蟇又に巴紋が入っており、妻の大瓶束が軍配団扇形となっているのが特徴である。全体にすっきりした建築で18世紀前期の建築と推定されてる。拝殿と覆屋を併合した入母屋造りの建物も珍しい建築である 長和町教育委員会 」とあります。八幡神社の創建年は不詳ですが、長く当地を支配した大井氏の居城、和田城から見て北東に位置する為、城の鬼門鎮守として勧請されたとも伝えられています。又、一説によると鎌倉幕府の有力御家人だった和田義盛が祭られているとも云われており、それが事実とすれば和田一族が祖神を祭ったとも考えられます。

戦国時代の領主である大井氏は天文22年(1553)に武田信玄との対立により攻められ滅亡し、和田城も落城後に廃城となりましたが、八幡神社は住民達の鎮守として篤く守られてきました。拝殿(本殿の覆い屋を兼ねる。)は入母屋、茅葺、平入、正面千鳥破風、桁行3間、梁間1軒。内部には文化財指定されている本殿が納められています。八幡神社本殿は江戸時代中期の社殿建築の遺構として貴重な事から昭和46年(1971)に長和町指定文化財に指定されています。祭神:応神天皇(八幡神)。

【 和田城 】-築城年は不詳、標高1016.4m、比高166mの中世の山城です。天文14年(1545)に本家筋の大井信広が武田家に従属するようになると、大井信定が和田城に移ったとされます。信定は武田家の信濃侵攻に対し快く思っていなかった為、同じく武田家と対立した信濃の国人領主村上氏と共に反抗を繰り返しました。天文22年(1553)8月、武田信玄が和田城を急襲、この戦いにより和田城は落城し、城主大井信定は討死しました。和田城はこの後、古文書等で記載される事がなかった事から廃城になったと推定され、城の麓に創建された信定寺が大井家の菩提寺となり、八幡神社と同じく、大井氏と関係が深い若宮八幡神社の境内には信定父子の墓碑が建立されました。

八幡神社:写真

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