木曽路・寝覚の床

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寝覚の床
人 物 名
備 考
細川幽斎・幽斎は木曽路にある寝覚め床は、幾重にも岩が重なりあい、そこから流れ落ちる水は本当に白く、淀は深く青々としている。まるで、真っ青な藍の入った瓶に真っ白な絹を入れたようだ。と評し、「山里は ねざめの床のさびしきに たへず音なふ滝枕か那」の歌を残しています。
松尾芭蕉・貞享5年(1688)8月、45歳の事で美濃国から信州更科に旅した約20日間の行程を「更科紀行」に記載されています。寝覚の床には「ひる顔に ひる寝せふもの 床の山」の句碑が建立されています。
貝原益軒・寝覚の床は木曽川の際にあり、大きな岩は横10間、長さ40間程で、最も高い所には弁財天を祭る小さな社があり、その1段下が平らな部分があり、この様から寝覚の床と云われるようになったとしています。その他にもそれぞれ特徴ある岩とその謂れを説明し、余りにも優れた風景すぎて、もはや奇妙な風景というしかない、言葉で表現する事が出来ないと評しています。一方、寝覚の床には浦島太郎の伝説が伝えられているが、日本記や古事記(浦島太郎の話の原型が記載)には寝覚の床の事が記載されていなく、寝覚の床に住んでいた三帰の翁という長寿の薬を人に与えるという伝説から「飛雲」という歌謡が作られていますが、こちらも信じる事が出来ないと評しています。
菅江真澄・菅江真澄が木曽路を訪れたのは天明2年(1782)5月の事で「寝覚め床」の事を後年、秋田の女川集落と同様に浦島太郎伝説が伝えられている事や、秋田の新町集落の蕎麦が寝覚め床で食べたものと似ていると語っています。
正岡子規・子規は寝覚の床を浦島太郎が竜宮城から帰ってきた後に釣り竿を垂れた場所で、川の中で松が生えている大きな岩が寝覚の床岩、その上の祠を浦島堂と説明し、屏風岩や畳岩、象岩、獅子岩、こしかけ岩、俎板岩、釜岩、硯岩、烏帽子岩などがあり「誠やこゝは天然の庭園にて松青く水清くいづこの工匠が削り成せる岩石は峨々として高く低く或は凹みて渦をなし或は逼りて滝をなす。いか様仙人の住処とも覚えてたふとし」と評しました。「白雲や 青葉わかはの三十里」の句碑が建立されています。
種田山頭火・素晴しい景観ではあるが、直ぐ近くに鉄道が通り、送電塔があるのは相応しくないと評しています。「おべんとうを 食べて洗ふて 寝覚めの床で」の句碑が建立されています。
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