野沢温泉(犬養御湯)・温泉街・町並み

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写  真 備  考
野沢温泉・温泉街
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【野沢温泉・温泉街】野沢温泉は古くは犬養御湯として名取御湯(仙台市:現在の秋保温泉)、信濃御湯(上田市:現在の別所温泉)とともに三御湯に数えられていました。犬養という地名の起こりは諸説ありますが安閑天皇2年(538)、数多くの屯倉が設置される事となり、その屯倉を犬を用いて守護する為、犬養部が設置され、設置された地域が時代共に犬養や犬飼などの地名になったと推定されています。

屯倉は全国各地に設置された事から、地名も各地に散見され、長野県内でも数多く存在しています。詳細は勉強不足の為に分かりませんが江戸時代に編纂された「信濃地名考」で「犬養の湯」を野沢温泉に比定しているようで、確かに野沢温泉の周囲には犬飼の地名があります。大きな根拠としているのは、寛弘3年(1006)頃に成立したと思われる「拾遺和歌集」の巻七の「犬養の御湯」に「鳥の子は まだひなゝがら立ちいでぬ かひのみゆるは 巣守なりけり」の歌が記載されている事に注視し、この歌の「鳥の子」は鷹飼部と関係が深いと解釈して、「犬養の御湯」がある場所は犬養部と鷹飼部の両方がある場所に違いないという結論に至り、野沢温泉の周囲にはその両方を満たす痕跡がある事から比定する根拠としています。この論が現在では定着したようですが、現在の長野県松本市にあたる信濃国筑摩郡辛犬郷では辛犬甘氏と呼ばれる渡来系の氏族が土着して、その後、犬飼氏を称する土豪にまで発展します。その一族と思われる犬飼半左衛門が天慶2年(939)に現在の浅間温泉を発見し、当時は「犬飼の湯」と呼ばれていたそうです。土地柄的には浅間温泉の方が信濃国府推定地に近いなど朝廷とも関わりが深いと思われますが、野沢温泉の源泉がよほど良く天下に知られていたのかも知れません。

三御湯として登場するのは順徳天皇が編纂した「八雲御抄」のなかで、さらに鎌倉時代中期の文永9年(1272)に「湯山村」として記載があり、湯山は温泉を連想させる事から既に温泉地としての認識がなされていたようです。天正12年(1584)、野沢菜発祥の地とされる薬王山健命寺が南室正舜により創建、江戸時代に入ると飯山藩(藩庁:飯山城)の保養地として藩主の御殿湯が設けれ本格的に温泉街として整備され、江戸時代初期には24軒の湯宿が軒を連ねていたそうです。明治時代に入ると2万人以上の湯治客が訪れるようになり全国的にも知名度が広がっています。

野沢温泉の特徴の1つが、地元の湯中間と呼ばれる組織13軒(上寺湯 ・真湯・横落の湯・滝の湯・十王堂乃湯・麻釜の湯・新田乃湯・河原湯・中尾乃湯・秋葉乃湯・まつば乃湯・大湯)が共同温泉を管理し、地元の人だけでなく観光客にも開放され、外湯巡りが盛んに行われている事で、野沢温泉の象徴的な存在でもある「麻釜」では現在でも、野菜や卵を茹でたりする事に利用され(往時は「麻」を茹でて皮を剥いでいた事から「麻釜」と呼ばれるようになった)、共同温泉の中には選択用の湯船が併設されている所もあり、現在でも温泉と生活が密着している事を窺わせます。

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